慶政説を支持するにも、否定するにも、今少し慶政の傳記を明らかにせなければならないのだが、其れが今のところ困難である。

例へば、本書の作者の生地は、上卷末の記事に「からはしちかき川原」〈爲相本は誤寫して居る〉が作者の「ふるさと」に近かつたと記して居る事により、京の人であつた事が判るから、慶政の生地が他日判明して、京の人であつた事が判れば、本書を慶政に擬する一傍證〈傍證にならぬ場合も無論ある〉揚を得る事に成るし、地方の生れであるとすると、慶政否定の確證と成る。だが此の慶政の生地は今のところ不明である。(此の唐橋近き川原は、九條坊門の賀茂川原であらう。)

慶政は文永五年に歿して居る。建保五年よりは五十一年後である。渡宋僧で渡宋の時の年齡の判明して居る人に就いて云ふと、榮西の初度の入宋は二十八歳の時、俊芿は三十四歳、永平道元は二十四歳であつた。慶政は建保五年に二十五歳であつたと假定すると、七十六歳で歿した事に成り、三十歳であつたとすると八十一歳で歿した事と成り、承久四年は、それ〴〵三十歳、又は三十五歳であつた事に成る。ところで本書に現れた作者の年齡は何歳ぐらゐであつたらうか。明確に書いたものとては無論無いが、名聞を捨て、隱遁生活を讃美するところなど、何うも老人じみた面影が見えるのではあるまいか。三十歳や三十五歳の壯年の僧を想像するのは何うも困難なのではあるまいか。但し是れは全く、現代人としての自分の主觀に過ぎないから、斯う云ふ事は問題と成らぬであらう。