字鏡集は、部首類辭書としては、慶長の刊本倭玉篇までのものゝ中では最も大部のものであり、字鏡集以前の辭書たる新撰字鏡、世尊字本眞本字鏡、類聚名義抄に比しては最も日本化したものである。しかも異體の字を註記し、韻を示すなどの點では、古本和玉篇や刊本倭玉篇などよりも高級である。其の部首を天象部・地儀部・植物部・動物部・人倫部などゝ云ふ樣に意義分類して居るが、これは無秩序に部首を並べたのでは、某と云ふ部首が何の册に存するかを知るに苦しみ不便であるのを考慮して、檢索に便利であるやうに意義分類したのであつて、字彙・正字通・康熈字典の如き畫數順に並べるのに比べては劣るが、説文式に漫然と並べてあるのに優る事は云ふまでも無い。尤も其の説文でもところ〴〵に意義の似た部首を並べて居る事が指摘できる。だが漢土の部首分類辭書で意義分類せられて居るものとしては、現存のものでは宋末の六書故が最初のものであるが、著者の戴侗は南宋淳祐〈元年は我が四條天皇仁治二年〉年中の進士にて、其の孫の時、元の延祐六年後醍醐天皇元應元年〉に刊行せられたものであるから、著述の時代は、すでに寛元三年四月〈仁治二年よりは四年の後〉には存して居た字鏡集よりは後れるものである(其の分類も九分類にて粗である。此の後明に成りて海篇朝宗、海篇心境、海篇正宗、篇海類編などゝ云ふ名も内容も似たり寄つたりの俗書的意義分類辭書が簇出する。)また本邦に於いても、新撰字鏡で意義の似たものがところ〴〵纒められて居る趣であるのを除くと、やはり意義分類の部首分類書と云つては無いやうであるから、字鏡集の部首の配列は畫期的と云へるのである。但し斯う云ふ配列が本辭書の創案であるのか、現在では佚亡してしまつて居るために見る事できないが、字鏡集の時代には存して居た辭書に此の種のものがあつて、其れを模倣したのであるか何うかは判らぬ。此の意義分類は平安朝末の色葉字類抄(色葉分類と意義分類とを併用した國語辭書)の意義分類と似て居るが、字鏡集とほゞ同じ時代に、寛元・寳治の頃に出來たか、作者は時の大儒菅原爲長では無からうかと疑はれる和漢年號字抄〈本書の事、昭和十年末に考説を發表した〉の分類とも酷似して居る。寛元より十年程後の建長六年に、説話集として古今著聞集二十卷が作られて居るが、これも説話を意義分類して居る。これらから察すると、當時は、何かと云ふと意義分類する風があり、其の好尚に從うて、字鏡集の部首配例も意義分類體を採用したのではあるまいかとも考へられない事は無い。從うて、字鏡集の創案と見る事も必ずしも不可能では無い。とにかく本書の部首配列法は本書獨特のものである。(此の後のものとしては、古本和玉篇の一種たる玉篇要畧集がある。此の本、自分は自分の見る事できる京都大學國文學研究室本の書名が單に玉篇とあるだけであつて、他と區別するのに困り意義分類體玉篇と稱したものだが、其の後川瀬氏が新に安田文庫へ入つた本として、此の大永四年の奧書ある玉篇要畧集を紹介せられたのである。さて部首だけを意義分類したものとしては、吉利支丹版たる慶長三年刊行落葉集の「小玉篇目録」がある)