字鏡集の本文としては二十卷本と七卷本とが知られて居る。兩者は異本關係にある。二十卷本の代表は、前田侯爵家の應永古鈔本二十册であり、應永と呼ぶ人もある。應永二十三年六月頃から寫し出して、翌二十四年の八月か九月かに寫し了へたもので、一・二・二十の三卷以外には各册に書寫年月を記して居る。其の一番新しいものは第十九卷の「應永廿四年六月廿八日寫之」であるが、此の日附のところは各册ともに「日」字以下を切り抜いて列の紙を貼りつけて、其れに「爲之」の二字を書いてあるのだが、斯う云ふ事が、前田家本では比較的新しい時代に加へられたものである事は、同じ應永本の轉寫本たる醍醐慈心院本〈但し其の轉寫本〉其の他に「……日於慈徳寺隅寮書了」とあるのにより判る。前田家本に何故斯う云ふ無用の手が加へられたのであるかは理解できぬ。さて此の古鈔本には十三・十四・十六・十七の四卷以外には、卷尾に「爲長卿作」と記して居る。爲長は鎌倉初期の大儒菅原爲長である。

七卷本は、七卷に分卷せられて居るから此の稱があるのだが、寛元三年の識語があるから寛元本とも云ふ。尤も寛元の識語の無い本もあるのであつて、古寫本としてはむしろ識語の無い本の方が多いのではあるまいか。赤堀氏が國語學書目解題で擧げて居られる寛元本が、現存七卷本の何れの本であるかは判らぬが、黒川春村が狩谷棭齋所藏の古鈔本を轉寫した春村本による解説と見る可きやうだ。其の春村本の轉寫本は帝國圖書館や大和の天理圖書館にある。また寛元の識語の無い古寫本が、京都の龍谷大學圖書館にある。一體寛元本には、どこにも内題として字鏡集と云ふ名は無いのだから、書名が不明と成りやすいのであるが、龍大本の如きも書名が不明となつたために、現在では「和玉篇」と云ふ題箋が存する。斯う云ふ書名に成つて居る本は他にも存するのである。

二十卷本と七卷とが、宇鏡集の異本關係にある事は誰しも認めるところであるが、別に宇鏡抄六卷がありて、これが亦字鏡集の一異本と見るべきである。赤堀氏が國語學書目解題で擧げて居られるものは、史料編纂所の徳川中期以後の寫本である三卷九册本であるが、これは完本では無い。此の史料編纂所本の親本たる古寫本は前田家に存し、六卷六册本で、天文十六年五月に榮祐が表紙を變へて居る由の奧書があるのだから、其の榮祐が「先年」光祐和上が寫したと云ふのは、享祿か大永の頃の事であつたらしい。前田家には今一部字鏡抄がある。本文は上中下に別ち、さらに其れ〴〵本末に別つから六卷であるが、これに目録が別册として添ふので七册と成つて居る。「永正五年〈戊/辰〉八月日 權少僧都暹頼之」とあるから、先づ此の頃暹頼が寫したと見て可からう。永仁頃の本朝書籍目録に「字鏡抄」を録し、卷數は本によりて一卷としたり六卷としたりして居るが、これは六卷を正しとすべく、其の六卷の字鏡抄と云ふのは、右の前田家の本の如きを指すと見るべきだ(一卷といふ卷數は、然う云ふ卷數のものが、無かつたとは斷言し難いが、部首分類辭書としては、簡易辭書たる和玉篇の類でも三卷本が普通だから一卷と云ふは誤と見たいのである。)

要するに字鏡集の一類としては、二十卷本、七卷本、及び六卷の字鏡抄の三種を擧ぐべきであらう。但し相互關係を想像する事は困難である。