字鏡集の製作年代に就いて述べたものとしては、黒川春村、伴信友、昨非庵是翁、敷田年治、小中村清矩等の説がある。いま便宜上、春村の説は後に述べる事として、先づ信友の説から擧げて行くと、信友は比古婆衣卷五喚子鳥〈全集本百頁上〉の條に於いて、字鏡集には寛元の奧書のある事を云ひ、さて

此書撰たる世詳ならず、今京となりて延喜より後のものなる事は著けれど、其訓は希らしき言も多かり、舊く書傳たるものに據れるぞ多かりぬべき

と云つて居るのだが、其の「延喜より後」と云ふのが、何時頃を指して居るかは明瞭で無い。しかし此の口吻では、何うやら平安朝の中期頃の事でも考へて居るのでは無いかと考へられもする。

次ぎに昨非庵は、嘉永五年八月に字鏡考一卷を書いたのだが、此の人が見た玉川文庫本は七册であつたから、七卷本であると信せられるが、識語も何も無いものにて、此の本に就いて、延喜天暦以前の書なる事は明らけしと云つて居るのである。但し論據は知らぬ。

明治期の國學者敷田年治は、文久元年七月に、木村正辭所藏本〈白河本の轉寫本〉を轉寫せしめて、其れに漢文の序文を加へたが、其の中で字鏡集の訓註は元來眞字〈萬葉假名の義であらう〉で書いてあつたのだ、其れを後に片假名に改めたのだ、字鏡集は「字書之祖」であつて、新撰字鏡は字鏡集に對して新撰と標したのである、と云つて居るが、訓註が眞假名で書いてあつたとする事は、年治の主觀であるに過ぎない。新撰字鏡は字鏡集に基いた名であると考へたが爲めに、字鏡集の訓註が片假名であるのを似つかはしからず思ひ、さて眞假名を片假名に書き變へたのだと獨斷せざるを得くなつたのである事は容易に考へられる。年治には字鏡集の訓註の語史的考察も、音註に反切を以てする事の少い事も、問題では無かつたのである。書名のみからの立言は餘りに單純過ぎる。

小中村清矩は、「わが國の辭書」〈明治二十七年十月脱稿〉の中で、「作者、菅原爲長卿といふ説あれど、確ならす、おのれは今少し後のものにやと思はる」と云つたが、清矩は應永本の事は知り乍ら、寛元本の事は知らなかつたものと見える。寛元本を知つてゐたならば斯う云ふ事は云へなかつた筈である。尤も善意を以て解釋するならば、清矩は應永本と寛元本とを截然と區別し居り、寛元本は寛元三年に存在して居た事を認め乍らも、應永本を寛元本よりも後出のものとし、さて應永本は爲長の作に非ずと云つて居るのだと解釋できない事も無いが、清矩は寛元云々の事には全く言及しては居ないのだから、右の如き善意の解釋も出來ない。其れにしても清矩ほどの惠まれた地位のものが、寛元本も知らなかつたと云ふのはいぶかしい。

此の後のものとして佐村八郎氏の國書解題は、應永本によりて菅原爲長の著とし乍ら、しかも「應永二十四年丁酉の編成なり」と云つて居るのは時代錯誤が甚しいが、是れを生まじめに彼れ是れ云ふにも及ばぬ。但しこれが基と成つて、國語學史の類に、應永二十四年の作とするものが少くないから困つた事である。また大槻文彦博士の口語法別記〈大正六年四月刊〉五頁に「字鏡集 後嵯峨帝、寛元三年、菅原爲長作(帝國圖書館藏)」とあるは、寛元識語と、應永本に「爲長卿作」とあるのとにより斯う書かれたのであらうが、爲長作とする事はともかくもとして、寛元三年の作であるか何うかは明言できない事である。