一〇
本書所見の鎌倉時代語彙の例示は是れ位で止めて、最後に、民俗、子供の遊び、社會状態などに關する記事を擧げて見る。云ふまでも無く本書の性質として、是れらのものは至つて少いのである。
- ○次、小童部〈ノ〉遊戲〈ニ〉、ヒ□クメ〈ト〉イフ事アリ、如何、コレ〈ハ〉オカシキアダ事ナレドモ、實詮アル事也、地藏菩薩〈ノ〉比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷〈ノ〉四部〈ノ〉弟子〈ヲ〉御コシ〈ニ〉トリツカセテ、ハグヽミスクヒタマフヲ、獄
率 〈ガ〉ウバイ、トラム〈ト〉スルマネナリケリ、トリヲヤガトラウ〳〵ヒフクメトイヘル〈ハ〉獄率〈ガ〉トラウ〳〵比丘・比丘尼〈ト〉イヘル義也、ソレヲオシミヲヤ〈ガ〉サリトモエトラジトテ□□□□〈四字分程不明〉地藏薩埵〈ノ〉罪人〈ヲ〉オシミ給ヘル〈ヲ〉マネベル也、カミ〈ヲ〉ミヨ、ハリウリ、シモ〈ヲ〉ミヨ、ハリウリ〈ト〉イヘル〈ハ〉カミ〈ヲ〉ミヨ、頗梨〈ノ〉銘〈ト〉イヘル義也、上頗梨ノ鏡ノ面〈ニ〉所造〈ノ〉罪業〈ハ〉アラハレタルハ、トイヘル義也、コレ〈ニハ〉種〻ノ詞ある歟、
子供の遊ぶ「子を取ろ子取ろ」と云ふ遊戲〈骨董集下、比々丘女條、國語辭典、嬉遊笑覽等參照。自分の子供時代には「じやんじやの桃食お、桃まだ青い、青いのが好きや、好きなら裏行て取つて來い」と云ふ唄が問答的に唄はれたのであつた。遊戲としての名は無かつたやうに思ふ。地方によりて唄に相異があるかも知れない。ジヤンジヤノ桃は何の事か、未だに疑問である。〉は其の名と遊び方とに變遷があり、名稱は後京極攝政良經の作庭記の木版類從本に「ひゝくめ」とあり、玄棟の三國傳記卷八比々丘女初事の條には、片假名ではヒフクメとあり乍ら〈但し、大日本佛教全書本による、骨董集は木版本を引いたのであらうかやはりヒフクメである〉漢字では比々丘女と書いて居るので、國語辭典はヒフクメを擧げずに、ヒヒクメを擧げて居る。しかして名語記では、はじめの方のは蟲損で第二字目が不明であり、次ぎのも同じく不明ではあるが、其れでも右肩の鋭角に曲つて居る字である事は明らかだから、三國傳記を對照して、ヒフクメと書いてあるものなる事は明言できる。三國傳記は惠心僧都が、閻羅天子故志王經所見の地藏菩薩の悲願により、此の遊びを案出したとあるが、惠心云々の事はともかくとして、原形が比丘比丘尼であつたとすると、ヒヒクメが轉じてヒフクメと成つたものと考へられるから、ヒフクメも辭典には採用する方が可いと思ふ。なほ遊び方に就いて云へば、作庭記は鬼に當るものが七・八も居るやうに書き、三國傳記も「兩方〈ヘ〉衆〈ヲ〉分〈テ〉」とあるのに據ると、獄卒が多勢居るやうだ。名語記の書き方もトリオヤの語から考へると、鬼に當る獄卒はどうやら多かつたらしい。が是れらの事はともあれ、此の遊戲の記事としては、本書は作庭記に次ぐものであり、ヒフクメの名では、三國傳記よりも古いから〈三國傳記は辛亥の年のものらしいから、骨董集の如く永享三年に擬定して置く〉此の點で遊戲史的には興味が深い。
ロヽ法師如何、答、前ニ申侍ベリツ、小兒ヲモリフスル時ノ詞也、ロヽ〈ハ〉波多迦王ノ舌ノコハクテ、ロヽ〈ノ〉字〈ヲ〉ノタマハザリシ時、乳母〈ニ〉イハセシ詞也、法師ハヒジリ法師ノ心歟〈十帖。前ニ申侍ベリツとあるが、第二帖にも三帖にも見えない〉
まだ物も云へない幼兒を遊ばせる時にオロロロ……と云ふやうな聲を出して見せて喜ばせる事は今でもあるが 〈嬉遊笑覽のレロ〳〵もこれであらう〉ロヽ法師の事は、後醍醐天皇の文保・元亨頃に出來たと覺しい聖徳太子傳卷一にも「寢入れ〳〵小法師、ゑんの〳〵下に、むく犬の候ぞ、梅の木の下には、目木羅々のさふらふぞ、ねん〳〵法師にをゝつけてろろ法師に引かせう、露々法師にをゝつけて、ねん〳〵法師に引かそう、御めのとは
- ○小兒〈ヲ〉アゾバカス〈ニ〉ヌカ〳〵セム〈ト〉イヘル如何、コレ〈ハ〉ヒタヒ〈ヲ〉アハスルアソビナレバ、ヌカ〳〵トナヅケタル也〈九帖〉 額を合せて押し合ふ遊びである。
- ○シソヽリトイヘル事如何、コレ〈ハ〉小児ヲサヽゲテ愛スル由也、四足ソリ也、コレニハ大職冠ノ御事ニツキテ甚深ノ義侍ベリト申人アリ、タヤスクアラハシ尺スル〈ニ〉アタハズ〈九帖〉
- ○小童部ノアシカキトテ、ヲドル如何。カタキヽノ反ハカキ〈ト〉ナル、片足ヲバモテアゲテ、タヾ足ヒトツニテヲドレバ、カタキヽナルベシ、又云、足〈ヲ〉セキカヾメタレバ、鎰〈ノ〉義ニテアシカギ〈ト〉イヘル歟〈九帖〉 今日でも斯う云ふ姿勢を取る遊戲はあるが、たゞ跳り歩くだけでは無く、此の姿勢の二人が、一定の範圍内で押し合ひ、埓外に押し出すを勝とするのが普通である。
- ○次、ツルガコシ如何、コレ〈ハ〉越前國ニツルガトイヘル所ノ山〈ヲ〉馬〈ニ〉荷ヲ負セテコス也、ソレヲ摸シテ勝負ノアソビ〈ヲ〉ツクリテ、ツルガコシトナヅケタリ、ツルガトハ敦賀トカケリ〈十帖〉
- ○
長谷 の條に紀長谷雄は長谷觀音の祈り子なれば此の名があると説き、さて「熊野〈ヲ〉信ズル人〈ノ〉コ〈ヲバ〉能ナニトナヅケ、南部〈ノ〉人〈ハ〉カスガ〈ヲ〉アフギ〈テ〉子〈ヲバ〉春ナニ〈ト〉イヘルガゴトシ」とある。 - ○人〈ノ〉名〈ニ〉トヨ如何、答、土用ニムマレタル
子 〈ヲバ〉トヨトナヅクル也〈三帖。子の旁訓は朱筆、ネと混ずるを避けるためにコと書いたのだらう。〉 - ○人〈ノ〉名〈ニ〉トヂトイヘル如何、トヂハ閇也、トヅル義也、コレ〈ヲ〉カギリ〈ニテ〉イマ〈ハ〉コモウマジ〈ト〉チカフヨシ〈ニ〉トヂ〈トハ〉ナヅクル也〈三帖。トヂに指聲符あり、トは下位、チは上位二點〉今の
留 吉の留に類したものであるらしい。 - ○鵼に關して「コノ鳥ハ恠鳥ニテ、ナグ音〈ヲ〉キク人ハ誦文〈ヲ〉シ、アルイハソノ家〈ヲ〉シバラクタチサル也、コレニヨリテ、ニクイヱ、ニクヤケテイ〈ノ〉反〈ニ〉ヨリテ、ヌエノ名ヲツケタリケル也」〈三帖〉 とあるが、頼政の話などを想起して興味が深い。野鳥が家に入ると其の家を一時的に捨てる習慣は未だに奄美大島の如き地方では行はれて居るが、恠鳥の聲を聞くだけで家を、一時的にもせよ、捨てる風習は、今は何處にもあるまい。
- ○山田〈ニ〉タツルソホヅ如何、コレ〈ハ〉人〈ノ〉スガタ〈ニ〉ニセタル物〈ヲ〉タツル也、シロヒトタツ反リテソホヅ〈ト〉ナル也、代人立也、又流水〈ニ〉筒〈ヲ〉ツリテナラス事アリ、オナジク鹿〈ヲ〉オドロカス術〈ノ〉カマヘナレバ、代人〈ニ〉准ジテソホヅ〈ト〉イヘル也〈七帖。別にソウヅの條にも殆んど同じ説明が見える〉 國學院雜誌に出た橘氏の文の例證とも成る。
- ○千秋萬歳トテ、コノゴロ正月〈ニハ〉散所〈ノ〉乞食法師〈ガ〉仙人〈ノ〉裝束〈ヲ〉マナビテ、小松〈ヲ〉手〈ニ〉サヽゲテ推參シテ、樣〻ノ祝言〈ヲ〉イヒツヾケテ、録物ニアヅカルモ、コノハツ子日〈ノ〉イハヒナリ〈七帖、ネノヒの條〉 散所は産所・算所とも書き平安朝中期の末には既でに存した賤民部落の事である〈國語辭典には此の意味の解を施してない〉その村より、乞食法師らの藝人が出で生業として居たのである。此の名語記に出て來る千秋萬歳の姿は、三十二番職人盡歌合のとは大分に違ふから、風俗史上、やゝ注意するに足るであらう。
- ○沐浴ノヽチ千米〈ヲ〉クフ〈ヲ〉カウクスリトナヅク如何〈十帖〉 名義抄や字鏡集、三大部音義其の他に×〈旁は幾/篇は酉〉をカハグスリと訓んで居るものにして、江家次第、侍中群要や禁祕抄には河藥と書いて居り、國語辭典は松岡明義や高田與清の説によつて、天子御沐浴の時奉る藥にて、御垢を除くための糠袋であると云ふ説、白米を浸した水で玉體に塗るから、皮藥であると云ふ説、又薫藥説を擧げて居り、古事類苑は、沐後身に塗りて邪氣を避ける藥なるべしと云ふ説を擧げて居るが、御沐浴中で無くて、御湯帷を召しての後に奉るものらしいから、糠袋では無く、召し上るものでなければならぬ。しかして國語辭典は×字を擧げないが、此の字は、謂㆓既沐飲㆒㆑酒とあり、又江家次第に白米の事が見え、名語記には米を食ふとあるから、やはり入浴後に食ふものとすべく、なほ名語記によつてカハグスリは天皇の召し上るものとも限らず、一般も亦カハグスリを食うた事を認むべく、カハグスリがユカハアミ(沐俗)と關係したものであるからには、やはり河藥の義である事を認む可きであらうと思ふ。言葉としてはカハグスリが名語記でカウグスリと成つて居る事に注意する〈カハダウ(革堂)、フキガハ(吹皮)がカウダウ、フイガウと成ると同じである〉
- ○山神ノ見テヨロコブナナル、オコシ如何、×鮓トツクレリ、オモクロセリノ反〈七帖〉 ×字は魚篇に
を二つ重ねたやうな字形だが、名義抄は鰧をヲコシと訓み、字鏡集は鮓をヲコシと訓んで居る。國語辭典はヲコシの語を何故か採録して居ないが、和名抄にも見え、又物部尾輿の名にも見える古語である。今ヲコゼと云ふ。さて山神がヲコシを喜ぶと云ふ事は何う意味であるかは、民俗學者より説明を承りたい。中山太郎氏の日本民俗學辭典には見えぬ。
- ○十帖のクシカヘルの條に「孔子ト申セリシ聖人……賢者〈ノ〉一失〈ト〉イヘル事〈ノ〉對記〈ニ〉アヒテ、ヲノヅカラ、オボシアヤマツ事〈ノ〉アルスヂ〈ヲ〉イヒヲケル歟、孔子タウレズトモ申ス同心歟、又云コユセリ〈ノ〉反〈ハ〉クシトナリ、アマリ事〈ノ〉サシコエテイフヲ、クシカヘルトハ申ス歟、カヘル〈ハ〉反也、飜也」とある。孔子
顛倒 ルであるか何うかは判らぬ説明である。對記の對字は變な字形であるが對であらうと思ふ、「對記」は諺と云ふやうな意味であるらしい事は、次ぎのノミノイキ天ヘノボルの條の用例で窺はれる。因みに「孔子タウレズ」とあるが、普通は「孔子 の倒れ」である。 - ○次、ノミノイキ天ヘノボルトイヘル對記アリ、蚤ノ息〈ノ〉ソラヘノボレル證據アル歟、如何、コレハノミホドノ小蟲ナレ〈ド〉モ、憶念ノムナシカラザルタケハ、サダメテ天ヘモノボル覽、善根ノ廻向〈ノ〉小雲〈ノ〉大虚〈ニ〉遍ズルガ如シトイヘル同心ナルベケレバ也、又云、コレハ蟲ノノミニテハアラズ、農民〈ノ〉イキ天ヘノボルトイヘル事也,民ノナゲキコリテ、天〈ニ〉アラハルヽ〈ヲ〉慧星〈ト〉ナヅクトイヘル文アル歟、コノ心ヲサシテイヘル對記ナルベシ、アノ聖徳太子ノ十七箇條ノ憲法〈ニ〉民〈ヲバ〉冬ツカフベシ、春〈ハ〉東作、夏〈ハ〉蠶養、秋〈ハ〉西收、コノ三季イヅレモイトマナシ、田ツタラズバナニヲカクハム、桑トラズ〈バ〉ナニヲカキムトシルサレタリ、又賢王ノ治世〈ハ〉撫民〈ヲ〉ムネトシ、仁政〈ヲ〉徳トシ給ヘリ、唐土ノ堯舜〈ハ〉采椽不刮、茅茨不〈レ〉翦ナドキコエシモ、セメテ民〈ノ〉ワヅラヒ〈ヲ〉イタハシクミ給ヘリシユヘナリ、シカル〈ヲ〉州縣〈ヲ〉管領シ、庄園〈ヲ〉知行スルトモガラ、事〈ヲ〉出役〈ニ〉ナヅケテ、日〻夜〻〈ニ〉土民〈ヲ〉クルシメツカヒ、利〈ヲ〉私用〈ニ〉ムサボリテ、臨時非分〈ニ〉用途ヲアテセムル〈ニ〉ヨリテ、民ノナゲキツモリテ天〈ニ〉變異ヲ現シ、人ノウレヘカサナリテ、世ニ夭殀オコル也、サヤウノ事〈ヲ〉農民ノイキ天〈ニ〉ノボルトハイヘル也〈ト〉申ス説アリ、コノ義サダメ〈テ〉マコトナル覽カシ」役人や政治家の服膺すベき言である。諺語大辭典によると、今も此の諺は生きて使用せられて居ると云ふ。源平盛衰記四十五卷大地震の條にも見える〈通俗日本全史本、〉但し、これは「蟇ノ息天ヘ上ル」とも作つて居る。
- ○カモシヽの皮をニクと云ふ事の條に女房らが疏んじ憎むからとの一説を述べた後で「カモシヽ〈ノ〉皮〈ヲ〉ニク〈ノ〉カハトイヘル故〈ハ〉ニクキ心ニテハ侍ラズ、カレハ美作國〈ニ〉オホカルモノ也、美作ニハ鍬〈ヲ〉濟物ニスル國也、シカルヲ鍬〈ヲ〉モタザル民〈ハ〉クハ〈ノ〉代〈ニ〉カノ皮ヲ濟スル〈ニ〉皮一枚〈ヲ〉鍬二口〈ガ〉代〈ニ〉ナスガ、カギリアル國例〈ト〉ナレリ、故〈ニ〉鍬二口〈ガ〉代ナレバ、二口トナヅケタル也……」〈三帖〉とある。ニクは
褥 即ちシトネの義であるから、鍬二口の事は無論附會ではあるが、鍬を持たぬ農民の事はまさか勝手の言でもあるまいから、經濟史的見地から見て注意するに足らう。 - ○問、諸國檢注ノ時、テシロハシロ〈ト〉イヘル國〈ノ〉詞如何、答、テシロ〈ハ〉十代也、トシロ也、ハシロ〈ト〉ハ廿代也、ハタシロ也、檢注〈ハ〉國〻ノ風〈ニテ〉名目ミナカワレリ、歩ドリノ所アリ、代トリノ所アリ、ツヱトリ所ノアリ、杖モ二樣也、六尺杖ツカフ國〈ハ〉ムツヱヲ一段〈ト〉せり、七尺二寸杖〈ヲ〉ツカフ所〈ニハ〉五杖〈ヲ〉一段トサダメタリ、又合取〈ノ〉國モアリ、ソノ堺ニ入〈リテ〉心ウベキ事也」斯う云ふ事は、われ〳〵には理解し難いが、經濟史研究者が見たら、多少は役立つかと思ひて擧げるのである。「國ノ詞」は地方の言葉の義であらう。
一一
前回の拙稿で、語原辭書としての名語記を述べた時に、徳川末までの語原辭書史を略説したく思ひつゝも、頁數の都合で果さなかつたので、今記す事とする。
(一)和語解 十八卷
鎌倉初期の神祇伯仲資王〈貞應元年薨六十八歳〉が撰述した意義分類體語原辭書であると云ふ。
(二)和訓精要鈔 二卷
右の和語解を、仲資王の子息たる神祇伯某が拔粹したのが精要鈔であり、やはり意義分類體にして、其の神祇伯は業資王であるらしいが、跋文から見れば業資王の弟資宗王で無ければならぬ。さて此の書、斯う云ふものであるとすると、大變古いものと成るが、實は僅か十六紙の片々たるもので、おどろ〳〵しい奧書はあるけれど、自分は徳川期の多田義俊の僞作で享保末年のものかと思ふ〈從來は僞書であるとは云はれては居ない〉さて精要鈔が僞書である以上、和語解十八卷も僞書であると云はなければならぬ。語原説はたわいも無いものだが、日本釋名と關係があるらしい。〈和語解の事や精要鈔の事は、立命館學叢昭和四年十二月より四月に至る間に四回にわたり掲載せられた拙稿「語原辭書和訓精要鈔に就て」を參照せられたい。〉
(三)和字 四十七卷
これも語原辭書らしいが、右の精要鈔所見のものだから無論問題にならぬ。
(四)桑家漢語抄 十卷一本
和名抄式の意義分類體辭書にて、楊梅大納言顯直の撰述であり、それで楊氏漢語抄とも呼ばれるものであり、奧書を信じると室町中期東山左府の頃には存して居り、桃花老叟即ち一條兼良も文明元年十二月に寫したりして居るもので、篤胤は「誠に天正の頃の寫本にやと見ゆ」る古寫本を手に入れて、内容はつまらないが「古書たることは疑なき物」と云つて居るが、是れも不自然な蟲損や、訝しい引用書から考へるに僞書であるらしい〈兼良の奧書も怪しい。楊梅大納言顯直と云ふ人も、分脈や 補任に見えぬ人である〉しおし其の僞作が室町期に行はれたか、徳川期に行はれたかと云ふ事は判らぬ。篤胤の見た本が眞に天正頃のものであらならば室町期の僞作なる事は確かだが、果して天正の寫本であつたか何うかは判らぬ。
(五)奉勅撰次 和訓 寫十卷一本又は三本
色葉分類語原辭書にして、序も署名も無いが、第七卷の色葉分類の尾に「神無月二日畢 大外記共房」とあり、第十卷末には、數種の識語があり、其れによると、何人かゞ帝詔により奉撰したもので、家祖師頼以來の重代の祕書であるから、嫡子でも、其の器に非るものには傳へたいとか云ふおどろ〳〵しい識語がある。第七卷の中程までは色葉分類語原辭書で、上段に國語、中段に其れに相當する漢字、下段に語原を注して居る。第七卷の後半以後は、漢字を韻順にあげ、其の下に和訓を注し、さらに其の下に和訓の語原を説くと云ふ風である。時代も著者も判らぬが、其の識語には不自然た蟲損のある事、又其の語原解釋が電覽的調査によつて見ても、ジヂズヅの誤りがあり、新しい活用も見えるから、やはりこれも僞書であると認めたい。時代が室町であるか徳川初期であるかも無論判らぬ。學者の中には、和訓精要鈔の如きを捉へて、徳川期の僞作たら斯う云ふ拙いものは作らぬ、拙いのは時代が古いからだと云ふ解釋を取りて、僞作説を否定する人もあるが、自分は其の解釋にはまだ從ふ事できたい。さて以上は僞書であると自分の考へるものだが、僞書であるにしても、僞書であると心得て居れば、僞作せられた時代のものとして擧げるのは支障無しと信じるから擧げたのである。以下述べるのは、僞書では無い。
(六)和句解 六卷六本 松永貞徳撰〈「寛文二年五月吉日/飯田忠兵衞開板」〉
色葉分類語原辭書であるが、内容は説いて居る暇が無い。横本にて縱四寸四分位、横六寸六分位、[f:id:Okdky:20080713125646j:image]と云ふ風の題箋がある。「書堂の人、
(七)日本釋名 三卷〈五本または三本〉 貝原篤信撰〈元祿十二年上元日(正月五日)自序、同十三年刊〉
後漢の劉熙の釋名に倣うた意義分類體語原辭書だが、凡例に於いて語原解釋法を説いて居る點は、然う云ふ事をせない和句解よりも進んで居る。其の語原説は大體承認し得るが、實際の解釋は、全くの常識的解釋であるのは惜しい。
(八)東雅 二十卷 新井白石撰〈享保二年夏起稿、翌三年夏加筆、四年二月脱稿、刊本二種あり〉
和名抄の組織を襲うた意義分類體辭書であつて、語原に觸れる事が多いから、語原辭書として扱ふのである。名は日東爾雅の義である。享保二年夏、白石失意のどん底にある頃、參考書も殆んど無い状態の時、子供の爲めに起稿したもので、次第に手を加へたものだが、窮境にありて、此の大著を物したのは、流石に柳營の「鬼」、冥府の閻羅王である。總論の卷がありて、語原説其の他を説いて居るが大いに見る可き説もある。實際の解釋も二十年前の貝原の日本釋名に比しはるかに優れて居り、量から云つても、質から云つても、徳川期の語原辭書としては、最も優れたものと云はねばならぬ。さて此の東雅と關係あるものに
(八)東雅袖領 二十卷七本、寫
がある。宣直清の序や、凡例はあるが、總論は無い。一見したのみで詳細には調べてないから、東雅との關係は判らぬが名から案ずると、東雅の要領を拔粹したものかと思ふ。赤堀氏も然う見て居られる。しかし拔粹したにしても、白石自身であつたか、別人であつたかの點も、調査したので無いから判らぬ。
(九)倭語小補 寫五卷一本 源式如撰 〈享保十一年丙午春三月六十七翁源式如漢文自序あり〉
意義分類體辭書にして、片假名文、第一卷は「惣標凡六條」にして總論の卷であり、第二卷以後が解釋である。總標の説は幼稚荒誕、其の解釋は大體通略説であるが、
(十)倭語拾補 十五卷
自分の見たのは東大の新しい轉寫本であつて、震災の時、端本と成つたものらしいから、全部の組織も著者も判らぬが、卷六より十五に至る端本により窺ふと、十五卷の意義分類體辭書であり、某々門の中は言葉をならべるのに、アカサタナハマヤラワ・イキシチニヒミイリヰ式であるのは、後の太田全齋(歟)の俚言集覽と一脈通ずるから面白い。解釋は片假名文にて、通略説が多いが、「小解〈ニ〉釋ス」と云ふ類の斷り書きの多い事や、其の解釋が通略の濫用である事、又書名が倭語小補の拾補であると見られる事から察すると、前記の倭語小補の著者の撰にて小補よりは後のものかと想像した次第であるが、東京高師圖書館の和漢書書名目録五十音別〈大正四年三月刊〉には、東大本の原本について「倭語拾補、田知顯、一五册」、と見えて居るのである。〈故に拙稿上九八頁七行は訂正せなければならぬ〉(斯う云ふ事は、完本を見たら直ぐ解決のつく事だが、其れを見ないので疑を存して置くのである〈刊本の所在は判明して居る〉)
(十一)和語私臆抄 寫十八卷 釋本寂撰〈寛政元年十二月漢文自序〉
赤堀氏の解題によると意義分類體辭書である。〈所在は知つて居るが眼福を得ない〉本寂と云ふ僧は、眞義眞言宗の武藏寶仙寺の本寂(無等)も居るが、是れは明和元年三月十三日の示寂であるから、本書の著者では無い。
(十二)言元梯 一卷 大石千引撰〈文政十三年正月他序/天保五年十二月刊〉
五十音分類語原辭書であり、穩當なのもあれば、滑稽な解釋もあるは、語原研究書として當然の事である。卷順に「
(十三)名言通 二卷 服部宜撰〈天保六年二月望自序/同六年冬十一月刊〉
信濃の儒者服部宜が、十年程もかゝりて、六十六歳の時に完成したもので、上卷は「物名」の部にて、物名を意義分類式に排列し、下卷は「言語」の部にて、物名ならざるものを五十音分類して、解釋して居るから、名言通の名もあるのだ。全部片假名文で、凡例や五十音説、追補五十字古傳が存するが、何れも殆んど採るに足らぬ。五十音圖も、オヲを故意に錯置せしめて、宣長の説を謬説なりと評して居るのだから、手がつけられぬ。言葉の解釋は延約、殊に約の濫用にして、假名遣を無視し、荒誕不稽、言語道斷のものである。同じく儒者でも白石と宜とで、これだけ異るのに、驚嘆せざるを得ない。さて此の愚書は、「和訓六帖」の名で、弘化三年に後摺本が賣り出された。「弘化三年丙午季春完刻」とあり、題箋、内題ともに和訓六帖とあるので、赤堀氏も「弘化二年二月成る」弘化三年刊、とせられたが、これは、松崎復の序に名言通とあるのを看過せられたから、和訓六帖が名言通の後摺惡本なる事を氣づかれなかつたのである。しかして此の和訓六帖本は著者の自序、五十音説、追補五十字古傳を皆除いたものにて、著者の語原説を見るには、此の本では不可能と成つて居るのである。著者自ら訂補した後摺本であるなら結構であるが、書肆の奸策により生れた後摺本を排斥すべき理由を示す一例である。
(十四)本朝辭源 三卷三册 宇田甘冥撰〈明治四年乃冬、門人信夫吉緒序、同五年壬申春他跋、同年刊歟、木版、袖珍本〉
五十音類聚の語原辭書だが、英語を對照して居る點に異色がある。甘冥は皇漢洋の三學に通じた人と門人は云つて居るが、他は知らず、皇學だけは、實によい加減のものだつたらう。主として音義派の立場から解釋して居るのだが、完全な五十音圖や假名遣が理解できない程境であるから實に言語道斷の愚書である。明治のものだが、初年のものであるから加へて置く。
さて斯くの如くに徳川末期までの語原辭書が存するが、其れらの組織や、解釋の學術的價値や、書としての量などを名語記に比べると、名語記は組織に於いて決して劣ることなく、量に於いても、大部であると云つてよく、學術價値に於いては、白石の東雅のみが、一頭地を拔き居る他は、大體が鈍栗の丈競である事を思へば、名語記が、時代の點に於いて最古のものであるがために大いに、注意すべきものなる事は直ぐ理解できると思ふ。
一二
以上で二・三・七・九・一〇の三帖を中心としての名語記の紹介を了へる。忽卒の調査であり、調査は全部にわたつて居るのでは無いから、誤謬も多からうと思ふ。他日機を得れば訂正する所存で居る。筆を擱くに當り、既でに縷述した通りに、本書は、其の純粹の學術的價値こそは、何分にも出來た時代が古い事であるから、現在の眼で批判して勝れて居るとは云へないけれど、しかし徳川時代の語原説と比べると大きな逕庭がありとも云へない程度のものであつて、殊に其の語原辭書としての組織が整然として居る點には、本書が古いものであるだけに歴史的價値があり、とにかく何と云つても、國語學史上の無二の珍書である事は間違が無く、しかも、轉寫本や版本とは異ひ、文永・建治頃に著者自身により書かれた唯一の原本であり、天壤間の孤本であるのだから、斯う云ふ眞の希覯本が、國家の保護を受けるやうに成り、更らに又、特志家によつて本書の精巧なる複製が行はれて、本書の流布が廣く成り、萬一の災害による湮滅が、防止せられるやうに成る事を、切に望んでやまぬのである。
最後に、名語記を發見せられた關靖先生に深甚なる御禮を申し上げる。(十月二十四日稿)