が此の「かはつるみ」の語はまた、有名な太秦ウヅマサ牛祭の祭文にも「鐘樓法華堂乃加波津留美」として見えて居る。一體此の牛祭は、祭禮其のものが異國的な、ぐろてすく極まるものとして、世間に廣く知られて居り、民族學的な研究の對象と成る可きものだが、其の祭文も亦、甚だ奇拔極まるものとして、研究せらる可きものである。さて此の祭文のテキストとしては滑稽雜談九月條、都名所圖會にも出て居るが、高田與清の擁書漫筆第二卷の十三項所載のものが最も信ず可きであらう。廣隆寺所藏、眞仮名使用宣命書き本の影寫本も見たが、原本の書寫年代も不詳であり、與清所引のものに比して不完全なものであり、又、其の朱筆傍訓の如きから察しても無下の近世のものであり、とても室町期のものとは見られないものである。しかして與清所引のは祭文は「應永九年無射ムエキ十二乃天(九月十二日)」のものが傳はつて居るが、惠心院源信僧都の作る所と傳へられて居り、與清は其れを信じて居る。源信僧都ならば後一條天皇の寛仁元年に示寂して居るのだから、應永よりは大體四百年も前と成り、宇治拾遺よりも古く成る可きである。しかし乍ら此の牛祭々文を源信が作つたと云ふ證據は無い。此の牛祭は、廣隆寺の常行堂念佛會の摩陀羅神風洗ふりうの諷誦文であり、其の常行堂念佛には、源信も關係した事があらうと想像せられても、此の摩陀罹神風流や諷誦文までも源心の作であると見る事は不可能であらう、(都名所圖會卷四は弘法大師の作だとして居る)此の文に見ゆるやうな「風流」の狂態は、平安朝期まで溯らせるのは何うか。(此の祭文の用語の語史的考察により、祭文の時代を推定する事は、今のところ、自分には不可能である。蓋し都合よく時代を示しさうな語が自分には見出せないからである)

右の如くにて、祭文の時代が不明だから、牛祭々文と宇洽拾遺との時代の先後は明言は出來ないが、先づ、祭文の方を後のものとすべきであらう。とにかく此のカハツルミと云ふ語の出て居るのは、今のところでは此の二種が知られて居るのみであるやうである。