私の文を御覽に成つた某先生は「蝋燭屋を始めるといふ詞を御承知ですか、是は蝋燭を作る動作にたとへたのです」と云ふ御注意を賜つた。さて此の御教示により、ふと思ひついて、念の爲めに藤井博士の諺語大辭典を檢して見たところ、成る程此の隱語的云ひまはしも採録せられて居るのであつた。但し「蝋燭を作る動作」が何う云ふ風であるかを私は知らない。
また同先生は「昨晩暑くて寢られぬまゝに考へたのですが、セツリのセは男子、ツリはツルミの省略と見る譯にはいくまいか性交は妹背の交りで、セツリは男子だけでの交接と考へるのです」と云ふ事を仰せに成つた。いかにも面白い御説である。但し私には、其の當否を判斷する力は無い。だが此の御説は、ツルミがツリと成つた――多分眞淵流の通略延約語原説の中の「約」に相當するものかと愚考する――とする點が、少々無理らしく考へられないであらうか。字鏡集のサツルは、野ロ恆重氏政刊本(第五册の一二一一頁)にもサツルとありて、これがもと〳〵セツルとあつたのだと想像せしめる材料は全く無いのだが、私は何だか、此のサツルが誤字でありて、正しくはセツルと云ふ動詞であり、其の名詞形がセツリであつたのでは無かつたかと、未だに考へて居るやうな譯である。さて以上の某先生の御説は「これは僕の説だなど、紹介されては困ります」と仰せになつて居るから「某先生」として引用させて頂いたのである。但し先生が唯の一度しかお使ひにならなかつたと信ぜられる特殊の御假名ペンネームにて龍待先生であると申すならば、知る人ぞ知るでもらう。