センズリと云ふ言葉は現在では、京阪を中心として、かなり廣範圍に亙りて、語頭音がヘと成つて居るやうであるが、其の京阪に於いて、セがヘと轉訛した時期を究める事も、語史的考察としては必要である。だが他に仕事のある私は、辭書類や軟派的文獻を檢して、査べた事も無いし、又殊更らに査べようとも、考へては居ないが、一つだけ、氣づいた材料がある。其れは「譬喩盡たとへづくし」と云ふ色葉分類俚諺辭書に見えたものである。此の書は縱五寸五分、横三寸八分ほどの小本八册のものだが、總體としては、七百四十一丁もあつてかなり大部な俚諺辭書で、江戸期のものとしては珍らしいものである。著者自筆稿本が存するのみで「天明〈丙/午〉年八月念五」、の自序「天明〈丁/未〉秋八月望」の自跋があつて、此の時一旦纒められたのではあるが、追々増補せられたものにて、寛政十一年の記入もある。著者は「華洛東武者小路梅屋坊寓舍松葉軒…東井一號春江」と名のる人で、經歴は不詳であるが、泉州堺の人で、京に出で一條家に仕へた人である事だけは判つて居る。さて此の書の「い之部」の「清書」の部分に

一夢いちまう二千にせん三肛さんこう四開しかい(訓世云、傍訓もとのまゝ)

と云ふ俚諺が載せてあつて、「快然之名目但閨中語也」と説明してあるのである。此の俚諺は、現在でも、行はれて居るもので――但し、言葉や其の順序には小異がある――珍しくは無いが、私としては「二千にせん」が面白く感ぜられる。また「手桃てもヽ仕廻しまふをく」と云ふのがありて〈添假名、假名遣本の儘、清書の所では無いが、増補としてもかなり早い頃のものらしい〉其の細註に「千摺也」と記してある。これらの語例から察すると、現在のヘンズリと云ふ形に成らぬさきの「せんずり」と云ふ形が、天明頃にまだ行はれて居たのでは無いかと疑ひうるのである。但し、輕々しい推定は下してはならかい。蓋し、若し本書の著者が標準語意識と云ふやうなものから、京阪の通常語としてから「二遍」とでも云ふべきを、ことさらに、「二千」と書いたのであるかも知れないと云ふ疑ひがあるからである。私はたゞ斯う云ふ材料もある事を示して置くに過ぎない。
私は前に寛濶平家物語の「手扁」を引いて置いたが、是れが、私の想像通りにテヘンと訓むのであるならば、しかして又其のヘンが、ヘンズリの略語であると云ふのであるならば、セがへに轉訛した時代は、寶永七年頃か、又は其れ以前になる筈であると云ひ得る譯である。しかし判ったものでは無い。