高麗史卷五十七地理誌(二五四頁。三國史記卷三十六、地理志三の四頁は高麗史に比し簡であり役にたたぬ)に、百濟クダラの馬突縣――馬珍とも、馬等良とも書く――が新羅に屬して以來、新羅シラギの景徳王(我が聖武・光謙・淳仁三朝に相當する時分の王)が馬靈縣と改め、任實郡に屬せしめたとあるが、(今の全羅北道の全州の東南六七里の馬靈場基の事であらうか、任實と云ふ地名も馬靈場基の西南五六里にある)此の地名は、百濟の地名としては馬突・馬珍・馬等良と書かれて居たから、其の百濟時代の發音は大體想像できる。按ふに

  • ○馬の訓は mar(龍飛御天歌や訓蒙字會による。雞林類事に「末」とある、a は第十一母韻であるが今では第一母韻と成つて居る)
  • ○突は字音が tor(月韻。華東正音の音も、今のも同じ)
  • ○珍の古訓は tor に近い音(此の古訓らしいものは、日本書紀神功皇后新羅征伐の條に出て居る波珍干岐ハトリカンキの名に見えて居る)
  • ○等の学音は現在では、tung tüng に近い音であらうが、古くは日本に於けるやうに母韻が o であつたかも知れぬ。
  • ○良の字音は今は ryong だが、これも古くは日本字音のやうに、母韻が a であつたかも知れない。だが一方では等字は吏讀リトの訓としては、tàr 又は tùr(前間氏による、à は第十一母韻だらうから tar 又は tür と書いてもよいのだらう。我が國民國語の曙四二二頁參照。此の訓は日本語の連ツレ、タチ、ドチと關係あるかも知れない。tür(小倉博士の吏道註解三三一頁による、但し羅馬字は今勝手に使用)であるから、良字を附加したものとし、「等良」の二字を tör, tür と讀む事できる。

さて斯く解釋すると、馬突・馬珍・馬等良は何れも、mar-tor に近い發音を示したものと見なければならぬ。三國史記祭祀志所見の武珍州の武珍岳を今では無等山と書いて音讀して居るが(前間氏による、四一三頁)これも「珍」の訓と「等」の訓とで、同じ發音を示したものであつた。
また百濟で難珍阿縣を月良縣と書いたのも(高麗史二五四頁)

  • 珍阿は先づ tor-a
  • 月良は良を語尾の附加的なものとすると tar

と云ふやうな關係であつたらしい。
とにかく右の如くに、馬突は、mar-tor に近い形であつたのだが、其れが新羅人により「馬靈」と書き改められたのである。して見れば「靈」が tor に相當するらしい事、云ひかへれば百濟の tor は、新羅には「靈」に相當する語であつたらしい事を考へてもまづ支障あるまい。無論、高麗史地理志を見るに、地名の變更は、必ずしも今のやうな解釋のみが可能であるとは決して云へないのは明白な事實であるから

  • tor=靈

と云ふ事は輕卒には云へないのであるが、右の「馬靈」の例は、わり合に右の推定を下さしめる可能性があるものと思ふのである。斯う云ふ例は乏しいのだが、他に次の如き例もある。即ち全羅南道木浦の東五六里の靈巖と云ふ地名は、本は百濟の地名としては月奈郡であり、其れが新羅の景徳王により、靈巖郡と改名せられたものであるが、其の月奈は山名から生れた名であり、其の山は

  • 月奈(百濟人の書き方)
  • 月奈岳(新羅人の書き方)
  • 月生山(高麗初期の書き方)
  • 月出山(高麗初期以後の書き方)

などゝ書かれて居る。(高麗史二五九頁下)しかして

  • 月の訓は tar 第十一母韻、訓蒙字會上卷一オ。今は第一母韻。蒙古語の sara 契丹語の賽離 sa-li、賽伊兒 sa-yi-er (伊兒はそれ〴〵口篇を有す。今は印刷の便宜上伊兒に作る)と關係あるが、日本語では、萬葉集所見の佐散良榎壯子ササラエヲノコ、佐散良衣壯子の「散良」と關係あるやうだ
  • 生・出の訓は na であるから、奈で示されて居る(國語のナスナルのナと關係があらう)

のだから、月奈は tar-na であるか、若しくは其れに近い呼稱であつた筈である。しかし此の山名に因む月奈タルナ郡は、新羅により靈巖郡と改められた。其は月奈山上に巨大な動石(我が國で云ふ「搖ぎ石」の類である)があり、一人で動かしる得るに拘らず、無底之壑に墮落しさうで、しかも落ちないので、其の神祕的な岩に因みて、郡名を「靈巖」と改めたものである事は云ふまでもないが、前の馬靈の例と結びつけて考へると、呼稱の方に於ても、靈は月の詞に似た發音であつたから「靈巖」と云ふ風に文字を變へたのでは無いかとも云ひ得る。若しくは逆に云ひて tar-na の tar も、月では無くて「靈」の義であるが、單に文字を替へて月字を使用して居たのに過ぎないかも知れないと云ひ得る。たゞ問題は、巖をナと呼んだ事があるが何うかゞ判らない事であるが、巖の訓は不明として、さし置くにしても、とにかく、今の貧弱な考察から、云ひかへれば「馬靈」の例から、靈に tar 又は tor の古訓の存した事を認めたいのである。なほ靈字を持つ地名は、

  • 百濟の奈己郡を新羅の奈靈郡と改めたもの(三國史記三五ノ五頁)
  • 大加倻郡を景徳王が高靈郡と改めたもの(高麗史二五〇頁)
  • 百濟の武尸伊郡が、新羅景徳王により、武靈郡と改められ、高麗に成りて更らに、靈光郡と改められたもの(高麗史二五九頁上、三國史記三六ノ六頁)

もあるが、何れも、何う云ふ風に改められたのであるかを考へ得ないから、是れらは全部除外する。從つて、靈字の古訓に關する私の考察が、實に論據微弱のものなる事は、私はもとより充分認めるのである。但しそれにしても、「靈」を tar 又は tor と云つて居たのは、百濟の事であるか、新羅の事であるか、其れとも百濟も新羅も然うであつたのであるか、と云ふ事に成ると、一見何でも無い事に見え乍ら、事實は決してそんなものでは無く、何うとも解釋が出來るので、決定は貧しい事である。そして此の事は、新羅・百濟・高勾麗・高麗などの朝鮮古地名を査べて、朝鮮古語を研究する場合には、いつも附き物なのである。