七
かくて私は「靈の朝鮮古語が、tar 又は tor であつた」と假定して、こゝに日本語のトラと、tar 又は tor と結びつけようとするのである。しかして其の理由は、既でに讀者も氣づかれたであらうが、虎が靈力ある
さて斯うなると、虎の如き猛獸に對する古代人の畏怖心理の考察も各種の民族にわたりて、せなければならない筈であるのだが、私には然う云ふ暇は無い。しかし乍ら確かに、われらの祖先は、虎を「神」として居た。其の證據は萬葉集卷十六の終にある乞食の詠に
韓國乃 虎云神手 生取 爾
とあり、又欽明紀六年の巴提使の條にも、虎のことを「汝
- 狼を
- オホカミ(大神の義)
- 狼を
- マガミ(眞神の義。萬葉集卷八に「
大口能眞神之原 」、卷十三に「大口乃眞神之原」) - 狼を
- カシコキカミ(欽明紀のはじめ、
秦大津父 の條に、狼を「汝是貴 神」と云つて居る) - 豹を
- ナカツカミ(和名抄に見ゆ、紀の古訓も是れである)
- 大蛇を
- カシコキカミ(神代紀、大蛇退治の條の一書に、スサノヲノ神は大蛇に向ひ「汝是
可畏 之神」と云つて居られる) - 熊を
- カムイ kamui(但しアイヌ語である)
- 海豹を
- カムイ kamui(但し樺太アイヌの云ふ事)
と云ふのと同じ事である。蛇形であると信ぜられて居る谷間の水神を、クラオカミの神と云ふのも、オカミの語原は判らないが(クラは谷の事、此の語は北方系の語であると思ふ)或ひはオカミのカミは神であらう。神の義で無いにしても、ミが靈物の義であるのは、記紀の神名を一寸査べて見れば直ぐ判る事である。ヲロチ・ミヅチの如き龍蛇の名稱に「チ」が添うて居るのも、彼れらが靈力あるものと信ぜられて居たからであるのは、今更述べるまでも無い。本居宜長が古事記傳で
さて凡て
迦微 とは古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる此に坐 御靈 をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獸本草のたぐひ海山など、其餘何にまれ、尋常ならず、すぐれたる徳ありて、可畏 き物を迦微とは云なり
と云つたのは、今の宗教學にても動かせないのである。しかも虎は恐しいものゝ中にても、恐しい猛獸である。(印度に獅子の居ないのは、もとは棲息して居たのだが、虎を避けて棲息せなくなつたのだと云はれて居るくらゐである)。さらに、虎に關しては皇極紀四年の條に
高
麗 學問僧等言 、同學鞍作 得志、以㆑虎爲㆑友、學㆓取其術㆒、或使㆔枯山 變爲㆓青山㆒、或使㆔黄地 變爲㆓白水㆒、種々奇術不㆑可㆓殫 究㆒、又虎授㆓其針㆒曰、愼矣愼矣、勿㆑令㆓人 知㆒、以㆑此治㆑之、病無㆑不㆑愈 、果如㆑所㆑言、治無㆑不㆑差 、得志恒以㆓其針㆒隱㆓置柱中㆒、於㆑後虎折㆓其柱㆒、取㆑針走去、高麗國知㆓得志欲㆑歸之意㆒與㆑毒殺㆑之
と見えて居る。實に荒誕な話ではあるが、現在でも狐狸の靈力を信ずるものがあり、書紀通釋の著者飯田武郷でも「かゝる獸類は、幽顯に出沒するものにて、奇術を知れるは本よりなれば」などゝ云つて居る程であるから、まして、虎害に惱んで居た筈の古代の朝鮮人は虎を畏怖する餘り靈物視した事もあるであらう。然らば其の虎を靈物視する思想は日本にも傳へられた事であらう。又三國時代に朝鮮半島の東海岸地方(但し辰韓よりは北、高勾麗よりは南、と云ふから、今の江原道の邊であつたらう)に「濊」と云ふ種族が居た。高勾麗と同種族であるから、夫餘系の種族であつたが、これは魏志東夷傳に「祭㆑虎以爲㆑神」とあるのにより明らかであある通りに、虎を祭つて居たのである。しかして虎を神として祭る事は、現在でも滿洲北部のツングース族 Tunguse の或るものには行はれて居ると云ふから、北方ツングース系種族の間の虎崇拜はかなりに縁由の古いものと認めてよいと思ふ。虎崇拜は、宇野圓空氏の宗教民族學二三五頁に「動物では象・獅子・虎・河馬・鰐・大蛇、植物では榕樹・椰子その他の薬草や芋の類に宗教的な意味が認められるのは、熱帶地にかぎられ、極地に近いところでは大樹の崇拜などは見られず、海豹や鮭に關する儀禮はまたこの邊に特有のものである。」と云つて居られるのだが、必ずしも熱帶地に限られた事でも無いのであつた。