さて耽羅と云ふのは、朝鮮半島南部の大島濟州島の事であり、我が國とは、一時かなりの交渉があつて、文獻には屡々見えて居るのである。即ち日本書紀について云へば左の如くである。

  • 繼體紀二年十二月。南海中耽羅人初通㆓百濟國㆒(○希云、半島側の記録では、ずつと早くて、文周王二年とありて一致せない)
  • 齊明紀七年五月。耽羅始遣㆓王子阿波伎等㆒貢獻(紀所引伊吉博得イキノハカトコ書に「耽羅入朝始㆓於此時㆒」とあり)
  • 天智紀四年秋八月。 耽羅遣㆑使來朝。
  • 同  五年春正月。 耽羅遣㆓王子始如等㆒貢獻。
  • 同  六年三月。 耽羅遣㆓佐平椽磨等㆒貢獻。
  • 同  八年三月。 耽羅遣㆓王子久麻伎等㆒貢獻……賜㆓耽羅王五穀種㆒、是日、王子久麻伎等罷歸。
  • 天武紀二年閏六月。 耽羅遣㆓王子久麻藝・都羅・字麻等㆒朝貢
  • 同  四年六月。 耽羅調使、王子久麻伎泊㆓筑紫㆒
  • 同  五年二月。 耽羅客賜㆓船一艘㆒。
  • 同  五年七月。 耽羅客歸㆑國。
  • 同  六年八月。 耽羅遣㆓王子都羅㆒朝貢
  • 同  七年春正月。 耽羅人向㆑京。
  • 同  八年九月。遣㆓新羅㆒使人……遣㆓高麗㆒使人、遣㆓耽羅㆒使人等、返之拜㆓朝廷㆒

と云ふ風に齊明紀七年より天武紀八年に至る二十年間に、右の如くに見えるのである。耽羅と日本との親密關係を見るに足るであらう。斯う云ふ風に交通があつたとすると、耽羅の獻上した貢物の中に、珍物として虎もあつたかも知れないと想像できる。尤も耽羅は島の事であるから、日本島同樣に虎も棲息はして居なかつたらう。虎を獻上したとするならば、其は半島より得て、更らに獻上したものと見る可きであらう。生きた虎は、運送上の困難から獻上せなくても、虎の皮ぐらゐは獻上したであらう。天武紀朱鳥元年四月條には新羅が、虎豹などを獻上した事が見えるのだから。
さて此の耽羅との交通は、持統朝頃よりは絶えた趣きである。耽羅が日本に接觸したのは、半島の形勢に基づいたのだから、耽羅新羅へ屬してしまへば、耽羅としては、我が國との交通も不要であつたらうし、我が國にしても、半島統御に失敗し、半島に殆んど望みを絶つた後であるから、不快に思うて居る新羅の勢力下にある耽羅と交通する必要も認めなかつたであらう。しかし乍ら、後の文獻にも耽羅の名だけは、

  • 續紀天平十二年十一月戊子に「耽羅島」
  • 同 寶龜九年十一月壬子に「耽羅島」
  • 令義解卷三賦役〈一一七頁〉に「耽羅ホシシ
  • 弘法大師遍照發揮性靈集の「延暦三年入唐大使賀能與福州觀察使書」に「耽羅之狼心」
  • 延喜式卷二十四主計上〈七三〇頁〉耽羅鰒」

などゝも見えるのである。交通は無くても、此の島の存在は流石に忘れられはせなかつたものらしい。(しかし、誤解によつて弘法大師の頃には、恐しい食人島であると見なされて居たらしいのである。其の事は後で説く)