さて此の耽羅は、海中にありて半島より隔離して居るのだから、もとは獨立して居たらしいが、百濟クダラの文周王二年(我が雄略天皇二十年に當る)には百濟の屬領の如くに成り、其の後百濟が衰へると、耽羅國主は、新羅文武王元年(わが齊明天皇七年、即ち耽羅の始めて入朝せる年)に新羅に降り(其の翌々年即ち天智二年に、百濟は日本の援助奏功せず、唐及び新羅の聯合軍の爲めに亡んだのである)其の後新羅亡びて、高麗の蕭宗十年、わが堀川天皇長治二年には、耽羅郡と成り、毅宗〈わが近衞久安三年より高倉天皇嘉應二年に至る〉の時、耽羅縣と成つたのである。高麗史の如き半島の文獻では、百濟や新羅に降つたと云ふ風に書いてあつても、日本書記によると、天智・天武朝頃ではやはり獨立國的であり、そこで屡々我が國に來朝して、半島勢力の壓迫に對する援助を仰いだものと察せられる。耽羅の最初の來朝が、百濟の滅亡せんとする齊明七年である事からでも、此の間の消息は察せられる。
さて此の耽羅は、三國遺事、高麗史、北史倭傳などには耽羅・耽牟羅と書かれ、太平御覽四夷事には耽牟羅國、韓愈の「送㆓鄭尚書㆒序」には躭浮羅、隋書百濟傳には耽牟羅、唐書劉仁軌傳には儋羅とあると云ふ風であるから、タンラ Tamra 云ふ風な名であつたらしい。〈國號の因りて出るところも高麗史に見える〉
しかし三國遺事や高麗史、又後の東國文獻備考などには屯羅と見え、我が國の扶桑略記延長七年五月十七日條には貪羅ともあるから、 Tonra と云ふ風にも呼ばれたらしい。按ふに、第一節の母韻はアともオとも聞える中間母韻の如きものであるために、かくの如く二樣に書かれるに至つたものかも知れない。
ところで日本では古く耽羅を何と發音して居たかと云ふに、其れは判らない。が書紀の版本や釋日本紀では、トムラと訓ませて居るから、やはりトに近い音であつたと見る可きだらうか。しかして此のトは、奈良朝期では所謂十三音の一つとして二種の音が存した點で注意せられて居るものである。大毎の祕籍大觀に收むるところの繼體紀は、惜しい事には、繼體紀二年の所が缺けて居るから、其の傍訓が何とあつたかは判らない。
だが此の耽羅は、我が國の文獻では、扶桑略記に貪羅と書かれ、又、今昔物語卷卅一鎭西人至㆓度羅島㆒語第十二では、度羅島と提かれて居る。度羅島はまさしく「トラの島」であらう。しかして、此の「度羅」と云ふ標記を、古いところで求めると、

  • 續紀天平三年六月乙亥の「度羅樂」
  • 同 天平寶字七年正月庚申の「吐羅樂」
  • 類聚三代格卷四〈五〇九頁〉「度羅樂師」
  • 令集解卷四職員シキン治部省雅樂寮〈九九頁〉に「度羅儛師」「度羅之樂」

などゝある。是れで見ると、國名としては慣用により、耽羅と書いて居ても、樂の名としては度羅・吐羅と書き、やがて其れが、今昔物語の度羅島と成つたのではあるまいか。しかして耽羅が度羅と書かれた事から考ると、古く Tamra と云はずに Tomra の方を呼んで居たらしい事が想像せられるのでは無いか。しかして此の假定が正しいとすると、撥音を出すのを困難と感じ、又は好まなかつたらしい古代日本人が、Tomra を Tora と云ふ風に、非撥音語に轉訛せしめたのではあるまいか。字音語の撥音を非撥音語にする例は平安朝後や其れ以後では、珍らしく無い現象であつた(Tomra を發音できずして、直ぐ Tora と發音して居た事を想像する事も可能であるが、明言は出來ないのである。)
因みに今昔物語では、度羅島の事が

其レハ度羅ノ島ト云フ所ニコソ有ナレ。其ノ島ノ人ハ人ノ形チニテハ有レドモ人ヲジキト爲ル所也。然レバ案内不㆑知ズシテ人其ノ島ニ行ヌレバ然集リ來テ人ヲ捕ヘテ只殺シテジキスルトコソ聞侍リシカ

と云ふ風に物悽い食人島として描かれて居るが、これは同じ今昔物語卷十一智證大師亘㆑唐傳㆓顯密法㆒歸來語第十二に

次ノ日辰時計ニ琉球國ニ漂着ク、其國ハ海中ニ有リ、人ヲ食フ國也

とある琉球と混同せられたものではあるまいか。琉球が食人島と誤解せられるに至つた理由は、隋書流求國傳を見れば判ることだが琉球の食人の事は本誌七月號の秋山謙藏氏の文を見られたし〉是れが混同せられて、度羅島までが、食人島と見られるに至るのも、當時の智識としては當然であつた。扶桑略記が「貪羅」と云ふ風に、惡い感じを與へる文字を使用して居るのも、此の誤解に基づくものではあるまいか。さらに古く、弘法大師が性靈集で「留求之虎性」に對し「耽羅之狼」心と云つて居られるのも亦、或ひはさう云ふ誤解から生れたものであるかも知れない。渡唐を志す求道者や商人により、耽羅・留求の二島が甚だしく恐れられて居た事は興味ある事である。