だがたゞ一つ私の訝しく思ふのは、耽羅が我が國に通じたのは、比較的新しく、齊明七年である事である。耽羅の事が百濟を通じて日本人の智識に入つたのは、繼體朝ごろ、或ひは其れより古い時代まで溯り得ようが、其の耽羅が我が國に通じたのは、齊明七年の事であり、其れは誤りの無い事であると思ふ。つまり此の時まで、我が國と何らの關係の無かつた耽羅が、我が國に通交したのは、百濟の援助が得られなくなり、唐や新羅の壓迫が甚しく成つたが爲めに、百濟に代る援助を我か國に求めるに至つたが爲めである事は眞違ひなしと信ずるからである。ところで然うすると云ふと、日本人が、耽羅と云ふ地名に因みてトラと云ふ言葉を作り出たのは、まさしく齊明七年以後で無ければならない事に成る譯だが、一方わが國と、虎の棲息する朝鮮半島南部との交通は、齊明七年より逢か以前に溯るのだから、其の間には半島より虎を獻上せなかつた筈はあるまいと考へられるのでは無からうか。新羅よりの虎豹皮獻上の事は、天武紀朱鳥元年條に一度見えるが、これはたま〳〵記録に殘つたに過ぎないものであらう。此の時はじめて獻上せられたのであると云ふ頑なゝ解釋は採用したく無い。日本に虎が居ない事は魏志倭人傳に於いて、既でに注意せられて居たくらゐだから、半島が入貢する場合には、虎の皮の如き特産物こそは、先づ第一に其の員數に入れた事と思ふ。獻上では無いが、欽明朝に半島に使ひした巴提便が百濟の濱で雪中に刺殺した虎は、其の皮が、證據品として、又土産として、日本へ持ち歸られて居る。天皇が其の皮を御覽あそばされ、廷臣どもが物珍らしげに見たゞらうと云ふ事も想像してよささうである。

斯ういふ譯であるから、虎の皮が日本に傳はつたのは、少くとも齊明七年よりは百十年程も以前の事である。しからば耽羅よりトラが獻上せられて其の結果、トラと云ふ名が生れる可能性が生ずるに至るまでに、虎に然る可き名が與へられる機會は充分あつたものと見なければなるまい。しかして、然う云ふ風に耽羅國以外の半島より入貢せられて其の結果、虎についての日本名が生れる場合には必ず耽羅とは關係の無い語形のものあつた筈であると認めなければなるまい。然らば逆に云つて、現在のトラと云ふ名をば、耽羅との通交のはじまる前に耽羅國名とは全く無關係に、他の事情で生れた名であると見る事も、未だ一縷の疑ひを殘し得るのではあるまいか。

但し臆測を逞しくすれば、耽羅と日本との交通は、公けには齊明七年に始つたのだが、人民同志の私的交渉は、何しろ九州から近い島の事だから、頻々と行はれ、其の爲めに對島や九州の人々は、大和朝廷の人々よりは逢か前に耽羅人を通して虎や虎の皮を知つて居り、從うて耽羅に因むトラと云ふ名を使用して居たのだ、其のトラと云ふ名が、やがて大和地方へも擴がつたのだ、と見る事も出來る。又早くから虎を示す詞も、朝鮮語を借るか何かして、存して居たのは事實だが、耽羅に因みて後で生れたトラと云ふ語の方が、優勢となり其の爲め、古い語は忘れてしまはれたのだと解する事も不可能では無い。此の方の解釋は、キサが忘れられてザウと成り、ナカツカミが忘れられてヘウとなり、カハビラコが忘れられてテフとなつた事情を考慮に入れるものである。