三一 鑽燧(一三)

○三一 鑽燧(一三)  上則官反、謂木中取㆑火也、倭云比岐ヒキ、下除醉反、謂鏡中取㆑火也、燧正爲㆑×〈隊の下に金を書く〉字、辭醉反、云火母也、倭云火打ヒウチ
此の比岐ヒキ火打ヒウチの事は、「音義私記解説」の結語の中に説いたが、解説と本稿とは獨立して居るのだから、再び略説する。さて鑽燧は慧苑

鑽燧
鑽、則官反、燧除醉反、鑽謂㆓木中取㆒㆑火、燧謂㆓鏡中取㆒㆑火也淮南子曰、陽燧見㆑日則熯而爲㆑火、方諸見㆑月則津爲㆑水、許叔重曰、陽燧、五石之銅精、仰㆑日則得㆑火、方諸、五石之精、則圓器似㆑杯,仰㆑月則得㆑水也、燧又作㆑×也、熯而善反

とあり、又大治本新譯華嚴經音義には

鑽燧
上子丸反、又音子亂反、所㆓以用穿㆒㆑物者也、倭言比岐利ヒキリ、下正字作㆑×、辭醉反、火母也、倭言火于知、又以比岐等也〈以字理解し難い〉

とある。音義私記は慧苑に據り乍ら、大治水を參照して居る事も判るであらう。さて慧苑は、古代の發火器として三種、即ち木の摩擦による鑽、凹面鏡使用の金燧、凸レンズ使用の陽燧を擧げて居るのだが、音義私記や大治本音義は火打石をも擧げて居るのである。(支那では燧石使用は時代が後れ、凹面鏡や凸レンズ使用の方が早かつたのである松本文三郎博士「遂と鑒」(藝文一三ノ一)箋注和名抄四ノ一〇オ二)さて本邦の上代には、記の大國主神歸順の條燧臼燧杵が見え、日本武尊の條火打が見え、では其の日本武尊の條の字を使つて居る。上代に木燧と燧石とがあつた事が判るが、案出から云へば、何所の民族でも木燧が最も古からう。さて燧石の方は記、音義私記、大治水私記により、火打・火于知がヒウチである事は間違ひが無いから問題は無い。木燧の方も大治本火岐利はヒキリで、燧臼・燧杵使用のものであり、キリは金屬などを廻轉せしめて穿つ行爲を云ふ語〈尤も劍などできる事をも云ふ〉の名詞形であるから、是れも珍しくはあるまい。珍しいのは比岐ヒキの語であつて、僞書倭姫命世紀「佐佐牟乃木枝〈乎〉割取而、生比伎ナマヒキ〈爾〉宇氣比伎良世給時〈爾〉其火伎理出而」生比伎の語があり、奈良朝末寶龜三年奉撰の歌經標式にも

禰須彌能伊幣、與禰都岐不留比、紀呼岐利弖、比岐々利伊隄須、與都等伊不可蘇禮(鼠の家、米舂きふるひ、木を伐りて、ヒキ燧り出だす、四と云ふか、其れ。穴粉火四、アナ戀ヒシ)

と「ヒキ燧り出だす」の語あるのと比べ、且つ二六で既述の如く、杵はもとキとのみ云つたのである事を考へると、音義のヒキは火杵であり、倭姫命世紀の生ヒキは生火杵ナマヒキで、火の出さうにも無いナマな木の火杵ヒキであり〈だから、發火の可能不可能をかけてナマヒキニウケヒ(誓)キラセ給ふとあるのである〉歌經標式のヒキ燧り出ダスのヒキも引キの義で無く武田祐吉博士の校註日本文學類從上代文學集引キとす、同博士の續萬葉集である由〉火杵であらうと考へられて來る。成實論天長五年點にも、攢燧ヒキヲキル〈○ヲは乎己止點他は假名點〉と訓んで居る。とにかくヒキの語は珍しい語と云ふ可きだらう。さて假名は、火を比で書くは誤りだが、岐は正しい。因みに倭姫命世紀は、神道五部書の隨一として、外宮神道者の僞作と云ふ事に定まつて居るが、僞作の材料としては、流石に古いものがあつたのだと認めれば支障は無い。