三四 醜陋(一四)
- ○三四 醜陋(一四) 下猥也、謂容貌猥惡也、猥
可多自氣奈之 - 貌字の旁を良に作るは非、慧苑は玉篇を引いて居るが倭訓が無いだけで先づ同文である。經文〈六六オ上三〉に
見㆓醜陋人㆒
とあり前行の見㆓端正人㆒
と對して居る。さてカタジケナシと云ふ語の假名書は記紀萬葉などには無いが、續紀宣命には用例がある。- 四十一詔〈天平神護二年冬十月壬寅〉
- 可多自氣奈〈彌奈毛〉念〈須〉
- 五十二詔〈寶龜二年二月己酉〉
- 加奈自氣奈〈美〉伊蘇志〈美〉恩坐〈須〉
- 五十四詔〈寶龜二年五月丁未〉
- 恥〈志〉賀多自氣奈〈志〉
又
と書いたのもあるが、カタジケナミと訓む他は無い。宣長の詔詞解第四詔の條に
「此言は、恐れ憚る意にて、恥る意をも帶たり、俗言に、恐れおほい、物體ない、なぞいふにあたれり、今俗にかたじけないと云ふは、意の轉れるにて、雅言と異なり」
と云ひ、二十六詔、四十一詔、五十二詔、五十七詔などの例は「俗言の意にも、おのづから通ひたるところありて聞ゆるなり」
と解して居る。だが是れらを音義私記の「猥、可多自氣奈之」
に比べると、かなり意味に於いて縁遠い氣がするのではあるまいか。そこで臆測を逞しくするにカタジケナシのカタは貌 にてナシは無シであり〈ジケは不明だがジはシシジモノなどのジか。ケも樣子を示す語と見られぬ事も無い。景行紀三年二月の形姿穢陋
をカタナシと訓んで居る〉元來容貌の猥惡を云ふ語であつたが、猥惡なるが故に恥ぢ憚る意味ともなり、さらに又轉じて行つたのではあるまいか。(醜字に差也の義があり、ハヅカシと云ふ訓がある〈法華經單字〉のを聯想する)ケの假名總て一致するから氣で可いのであらう。