五六 蒙惑(一七)

○五六 蒙惑(一七)  上音牟、訓加何布流カガフル
慧苑に無し。濁音としての假名何の右旁に宇を記入しありて、カウブルと訓ませるらしいが、宇字の記入は別筆で後人である。カガフルが後にカウブルと成つたから、斯かる記入をしたのだ。さてカガフルは後世のカブル(被)義であるが、こゝは經文〈八六ウ上尾五〉趣㆓佛菩提㆒無㆓障礙㆒、志㆓求妙道㆒除㆓蒙惑㆒とあるのだから、此の蒙は愚蒙、蒙昧などゝ續く蒙であるから、カガフルでは妥當な和訓では無い、本書一六三には、今一つカガフルが見えるが、それは被甲の義だから正しい。さてカガフルは、萬葉集麻被引アサブスマ可賀布利二○カシコキヤ美許等加我布理とあるが、後にカウブリと轉訛する、即ち地藏十輪經元慶點カガフリ(冠)石山寺本金剛般若集驗記カヽフラカヽフリ初弱冠時ウヒカヽフリ新撰字鏡裹頭一二ノ二八ウ一加我布利須幞頭一二ノ二八ウ六加〻布利須四ノ二〇オ三比太比乃加〻保利×(髟の下に富)三ノ二六オ一加〻保利又加美佐之×(旁は是/篇は角)五ノ六オ六加美左洒、又加〻保利乃佐須の如くカガフリ、及び其の轉訛したカガホリの二形であるが、和名抄では賀宇布利とあり、保延二年三月書寫の法華經單字に於いては六例ともカブリカブル三卷本色葉字類抄ではカウフル黒川本カヲフリに作るは非〉カフリノカサリカフリルヲ二卷本カウフリカフリ俗カフリカサリカウフリノヲに作る)名義抄は皆カウブリカカブルである。ところでこゝで一言せなければならないが、和名抄は、辨色立成や楊氏漢語抄を引いて居るのである、即ち「冠〈幞頭/附〉兼名苑注云、冠〈音/官〉黄帝造也、辨色立成云、幞頭〈賀宇布利、幞音僕、今按楊氏/漢語抄説同、唐令等亦用之〉とあるので、カウブリの訓は辨色立成や漢語抄から出たやうに見える。しかるに、此の二書は奈良朝のものにて漢語抄は養老所撰と云ふから、カウブリと云ふ語が養老頃からあつた事と成り、音義私記のカガフルの語と語史的に矛盾する事に成るのだが、しかし、こゝは和訓の事では無く、冠の事を幞頭と書く事が辨色立成や漢語抄、唐令等に見えると云つて居るのだと解釋するのが正しいと思ふ。だからカウブリの語の出現は、やはり新撰字鏡を越えて養老頃に存したと見る必要は無いのである。なほ今一つ和名抄の和訓について云ひたい事がある。敬西坊信瑞の三部經音義集は、和名抄をかなり引いて居るが、無量壽經卷上の寶冠の條〈續淨土集全書本による、〉「倭名曰、兼名苑注云、冠〈音官倭名/賀布利〉黄帝造也」とありてカブリの語が見え、大谷大學所藏の寫本では賀布利毛乃〈利毛の二字を一字に作つて居るが誤なれば意改す〉に作つてゐる。しかして此の事は望之の箋註本や廣本和名抄とは一致せない事である。其れにカウブリに比べると、カブリ、カブリモノは新しい形で和名抄時代に存したとは考へられない。だから、信瑞所引本は、大いに不思議である、しかし和名抄は箋注本や廣本の如きもののみであつた譯で無いらしいから、後人の手の加はつた本もあり、鎌倉期の信瑞は其れを引いたと見れば可い。因みに世尊寺字鏡の巾部には巾をカウフリカヽホリと訓み幘を比太比乃加〻保利と訓んで居るが、カブリの語は無く、名義抄にも見えない、比太比乃加〻保利が新撰字鏡に據つたものである事は云ふまでも無い。さて最後に、今一つ妙な例のあるのを指摘する。其は黒板博士藏金剛般集若驗記〈一ノ二三〉荷㆓天恩㆒の荷字をカフリ天と訓じて居る事である。此の黒板本は石山寺本の分離したものであり、其の石山寺の加點は大矢博士が天安以往、天長承和に近き頃のものとせられるものであり、其れには正しくカヽフリと三度まで記して居るのだから〈大矢博士による〉黒板本カフリテとあるは何としても不思議である。それで、是れは白點を朱點に移す時に、誤寫したものとして輕く片付けたく思ふ。然らざれば説明がつかないからである。とにかく、音義加何布流はカガフルであり、傍記の宇はカウブルの語の出來た時代に後人が記入したものであるから、藤枝徳三氏が、「動詞ウ音便の一考察」上〈國語國文昭和十五年九月號〉「宇を故意に小字にしたのは、カカフルからカウブルまでの變化の途中カとフとの間に撥音か鼻母音かを介在せしめた爲の表記と見られないであらうか」と云はれたのには從はれぬ。カカフルと清音で訓むのもいかゞ、カガフルだと思ふ。