八五 心腎肝脯(二五)

○八五 心腎肝脯(二五)  心人情也、腎音神、訓牟良斗ムラド、肝音干、訓岐毛キモ
慧苑に無し、經文〈一二五オ上九〉に心腎肝肺とあるもの、脯の事はすぐ次ぎに云ふ。干を于に作つて居るが意改した。ムラトは二十七卷にも牟良斗とあり、清濁は判りかねる。新撰字鏡、和名抄に見え、倭訓栞は「聚戸の義成べし、精氣のむらがりあつまる處なり」と解して居る。斗の假名は處の義の假名として不都合で無い。次ぎにキモは記仁徳段、丸邇臣口子ワニノオミクチコ代讀の御製に、岐毛ムカフ心、とあり、萬葉十六乞食者詠にも伎毛とあり、本書二十七卷にも肝字を岐毛と訓んで居る。岐字で正しい。さて此の心腎肝脯の註の次ぎに脯〈趺武反、乾肉薄折之、曰㆑脯也〉とあるが、これは心腎肝脯の脯字の説明である。さて此の脯字は、六六で云つた樣に乾肉の義であり、五臟の肺の義では無いやうだが、經文の肝肺を音義私記は肝脯に作り、しかして其の脯について乾肉である事を註して居るのだが、新撰字鏡〈一ノ一三オ八〉にも脯を布久〻〻之と訓んで居る、フクフクシは肺である。脯字にも肺の義があると見なければならぬ。九六にも經文の肝肺を私記は肝脯に作つて居る。日本靈異記上卷第一話に「小子部栖輕者‥雄略天皇‥之隨身、肺脯侍者矣」〈肺脯侍者の語は第五話にもあり〉とある肺脯につき、類從本の訓註は肺脯〈上音□肝也、下音布、訓伊也〉と記して居る、イは熊のイなどゝ云ふイにて膽俗に云ふニガダマである。フクフクシとイとでは大いに違ふが、斯う云ふ五臟關係の語は、混同しやすかつたと見て可からう。とにかく肺脯・肝脯と云ふ場合の脯は乾肉でなく、五臟の一つの名である事は明らかだ。脯字に五臟の名のある事は、杜撰の評判高い康熈字典や今出來の辭海などでは知る事出來ないが〈佩文韻府にも肺脯の語は見えない〉古註には必ず見える事だらうと思ふ。其の方面の研究者の高教を仰ぎたい。