九九 心懷㆓殘忍㆒(二七)

○九九 心懷㆓殘忍㆒(二七)  ‥‥下布都久呂フツクロ‥‥
慧苑にもあるが、私記の方長文である、しかし其れらは無用だから、全く倭訓のみを擧げた。布都久呂は心懷の懷字〈原本旁を徳字の旁に誤る〉の訓であるが、この文の訓としては、オモフとがイダクとかが妥當であり、布都久呂と云ふ名詞は、例により宜しくない。さて都字は本書では十一度見えるが、其の中十度まではツを示し、久は皆クであるから、布都久呂はフツクロと訓む可きである。さて新撰姓氏録左京神別上依羅連ヨサミノムラジの註に饒速日命十二世孫、懷大連之後也とある懷は、舊事紀の天孫本紀に十一世孫物部布都久留連公とある人で雄略朝の人である。舊事紀は弘仁十四年以後承平六年以前の僞作だが〈坂本博士の大化改新の研究による〉天孫本紀の物部氏の事は信ず可きものと云はれて居る。其の布都久留を姓氏録河内神偏物部の條は物部布都久呂大連と書いて居る。フツクルの方がフツクロより古い形であらう〈因みに日本書記通釋に、此の懷大連を、推古記十八年八月の物部依羅連抱と同人であるとして居るは誤である〉此の後宮内省本允恭紀七年にフツコロとあるが、フツクロ、フトコロの語は新撰字鏡にも和名抄にも見えず、世尊寺字鏡〈上四〇ウ〉にフトコロ、名義抄にフツクロ・フトコロ、平安朝末加點世俗諺文フトコロが見える。フツクル・フツクロ・フツコロ・フトコロと轉訛して行つたのである。さてフトコロの語原が判じぬためロの假名の當否にも判らぬ。因みに云ふ、柳田國男氏の蝸牛考〈八六―八八〉に、幼兒を入れる藁製の圓い器をツグラと云ひ、蛇が丸く蟠る事を肥前の平戸邊ではツグラ(標準語ではトグロ)と云ふ、其の蛇のツグラに對し、懷を平戸ではフツクラと云ふが、肥前肥後の各地では單にツクラと云ふ、それは衣服の重りあつて丸く膨らかに成つて居るからだとして居る。暗示に富んで居るが、文獻學者としては、參考にとどめる他は無い。又、宮内省圖書寮所藏宋版六臣註文選は應永末年の寫點本であるが、フツコロの語が見える(大矢氏による)、點本では傳統を守るため、斯う云ふ古い形も出てくるのである。