前田侯爵家本三寶繪 池田龜鑑氏解説

源爲憲が冷泉院の女二宮尊子内親王の御爲めに、永觀二年十一月に物して献上した三寶繪また三寶繪詞には、三種の本文が傳存して居る。自ら眼福を得たのでは無いが、諸家の記されたのにより列記すると、其の一は前田侯爵家所藏本にして、寛喜二年庚寅三月十九日より四月九日へかけての頃、即ち三寶繪完成後二百四十六年に七十七歳の老僧叡賢が醍醐山西谷で書寫したと云ふ識語のある本を、前田松雲公が正徳乙未五年の夏に影寫せしめて、自筆の跋を加へられた眞名三冊本である。其の二は「保安元年六月七日書うつしおはりぬ」〈保安は永觀二年よりは百四十六年後〉とある名古屋の關戸氏所藏平假名一冊本(墨付百行)であるが、中下兩卷に當るけれど完本では無く、古筆として剪裁せられた殘りであり、關戸氏本や、剪裁せられて諸家に散在して居る東大寺切を集めても、三寶繪全體から云へば三分の一を少し越す位である。其の三は東寺觀智院所藏の國寶三帖本であつて、下帖に「文永十年八月八日〈彼岸/中日〉未刻書寫了」と云ふ奧書がある。片假名を雙行に記して宣命書風であるが、此の點は、中下兩卷では亂れて居るので、中下兩卷は上卷よりは後の物のやうであるとして、書寫年代の相異を認める説も存するのである。上卷末に一枚位の缺失がある。がとにかく、三寶繪としては、以上の如き三種の本文が傳存して居るのだが、偶然にも此の三種は、其れ〴〵眞名本・平假名本・片假名本と云ふ風に大きな相異があるので、是等三種の先後如何と云ふ事が、大きな問題と成つて居るのだが、然う云ふ問題を考察するには、何うしても、三種の本文を比較せなければならないのは云ふまでも無いのに、從來は其れが殆んど不可能であつた。蓋し三寶繪の刊本は乏しいが上に、佳良なものが無かつたからである。三寶繪の刊行は大日本佛教全書第一一一冊傳記叢書の中に收められたのが最初であるが、□□□は觀智院本の飜刻ではあるけれど、飜刻の拙劣な爲めに、感心せない本と定評せられて居るのである。しかし是れでも刊本が無いよりは、優つて居ると云ふ意味で重寶がられたものである。此の後最近昭和七年十一月に至つて、高瀬承巖氏が亡夫人の追福のために飜刻せられた和裝一冊本が出た。例により三寶繪の代表たる觀智院本を底本とし、其れに必要に應じて前田・關戸兩家の本との校異を記入したものであり、飜刻の態度に於いて、又其の本文の佳良なる點に於いて、佛教全書本を遙かに凌駕するものなる事は想像するに難く無いが、其れでも、片假名を平假名に改め、宣命書を無視せられた事、他本との校合の註記が極めて簡單であり、しかも各卷末に一括して擧げてある事などは、よしや本書の刊行が研究的意圖に基いたものでは無く、他日更に版を改めて原型を示し、考異を附して刊行する所存であつたが爲めの一時的出版であつたとは云ひ乍らも、實に遺憾千萬の事であつた斯うして三寶繪は二度刊行せられたが、何れも觀智院本であり、他の本は貴紳富豪の秘籍であり、特殊の研究家以外は拜見する事出來ず、從つて三寶繪其のものゝ研究も困難であつたのだが、喜ばしい事には今年に成りで前田侯爵家は尊經閣叢刊昭和十年度配本の一として、其の眞名本を複製せられるに至つたのである。云ふまでも無く、松雲公が寛喜二年本を影寫せしめられた本にて、帙入三冊、墨附七十一丁の朱表紙の大本であるが、其の複製本は他の尊經閣叢刊同樣に前田家の原本其の儘の姿であらう。昭和十年の出版界に於ける代表的豪華版であらう。池田龜鑑氏□筆の解説和裝二十八頁は、從前の説を集成して、餘すところが無い。さて眞名本(純漢文では無い、準漢文である。此の儘では到底讀下出來ない程度の文である。)は是れを高瀬氏の觀智院本と比べると無論前田家本の方よりも觀智院本が優れて居るところもあるが又其の反對のものゝあるのに気づく。觀智院本との先後と云ふ事も、斯うして、前田家本が公刊せられた今は、一部の研究家のみならず、多數の研究家が、今までとは比較にならぬ程容易に、考察の對象とし得るのである。三寶繪研究史上本書の刊行は、正しく一時期を畫するものなる事は、多言を要せぬ。學徒は、尊經閣叢刊の大事業を着々進捗せしめられる前田侯爵家に對し、又尊經閣叢刊昭和十年度配本として此の三寶繪を採擇せられた當事者に對して、永久に深甚の謝意を表す可きである,隴を得て蜀を望むは人情の常、吾人は觀智院本や關戸氏本の複製的刊行を冀望する事切であるが、果して何時、此の冀望が實現するであらうか。さて本書は昭和十年七月二十六日發行、尊經閣叢刊乙亥歳配本、非賣品。(岡田)