なほ眞草本が元和本の本文、但し主として訓注を破壞して居るか、其れとも訂正して居るかを檢するに、すでに眞草本の親本が元和版であるか何うかを考へる時に述べたやうに、元和版の良くないところを訂正して居る事が多い。なほ然う云ふ例としては次のやうなものがある。(右は元和版丁數、左は眞草本のもの、但し甲丙二本につき云ふ。上が元和版の誤で、下が眞草本の正しい訓である。)

×(労は鳥/扁は句)〈二六オ七/一ウ二〉 スエ ヌエ
〈一六ウ二/一ウ四〉 ラシ ヲシ
×(旁は隹/扁は賓)〈三〇オ五/七ウ五〉 コスヾヌ コスヾメ
×(旁は叚/扁は魚)〈三一オ六/九ウ一〉 ユビ ヱビ
〈三二オ六/一〇ウ五〉 カツラ カツヲ
×(旁は兆/扁は魚)〈三三オ四/一一オ二〉 ヲホナマズ 大ナマヅ
〈三三ウ七/一三ウ四〉 コネヅミ コネズ
〈三五オ一/一五オ四〉 トカヂ トカゲ
〈三五ウ七/一六ウ二〉 ミ〳〵ズ ミヽズ
×(旁は堇/扁は虫)〈三八ウ四/二〇ウ一〉 ミ〳〵ズ ミヽズ
×(旁は憲/扁は虫)〈三九オ七/二一ウ一〉 ミ〳〵ズ ミヽズ
〈四〇ウ三/二四ウ三〉 ウチタマハル ウケタマハル
〈四五ウ七/三四オ一〉 ハランヂ ワランヂ
×(旁は及/扁は革)〈四六ウ二/三四ウ五〉 ハキモク〈クでもないが誤字である〉 ハキモノ
×(旁は毚/扁は革)〈四七オ五/三五ウ五〉 クフ クラ
×(旁は内/扁は韋)〈四七ウ五/三八オ二〉 ヤウラカ ヤワラカ
×(旁は番/扁は韋)〈四八オ三/三八ウ一〉 ムヲガル ムラガル
〈四八ウ七/三九ウ五〉 フキ フチ
×(旁は弗/扁は糸)〈五〇オ七/四二オ一〉 棺字を手扁に作る 正し
〈五一オ三/四三オ一〉 音シヨフ シヨク
〈五一ウ三/四三ウ三〉 音ケウ キウ
×(旁は無/扁は巾)〈五三オ二/四七オ三〉 音ニ
〈五六オ六ノ一/五二オ四ノ一〉 此の字は複といふ字であるが、慶長版、元和版は妙な旁とし、眞草本は正し。
×〈五八オ三ノ三/五四ウ四ノ三〉 此の字は衣扁に斗を書いた字だが、慶長版に於いて妙な形と成つて居るから、元和版はさらに爿に似た形に誤つて居る、其れを眞草本は斗に改めて居る(但し點が一つ多い)
〈五八ウ五/五七オ一〉 カエテ カエツテ
×〈五九オ四ノ三/五七ウ二ノ三〉 音カウ、メグルの字は、勹の中に合を書いた字である可きだが慶長版も元和版も誤つて居るのを、眞草本は訂して居る、尤もカフが正しい。
〈六〇ウ三/五九ウ四〉 音ケツ ラツ
〈六二オ六/六二オ四〉 此の圃字、元和版は甫を誤つて居るが〈慶長版の中、有・單は正し〉草本は訂して居る。
×(囗の中に有を書く)〈六二ウ三ノ四/六二ウ三ノ四〉 ソク ソノ
〈六四オ五/六五ウ三〉 ウシナラ ウシナウ
〈六四オ六/六五ウ四〉 ナガフ ナガラ
〈六五ウ四/六七ウ三〉 カギキ カギリ
×(旁は巴/扁は帚)〈六七ウ一/七〇オ三〉 クツ ウツ
〈六八オ七/七一オ五〉 音フン ソン
×(旁は禹/扁は子)〈六八ウ一/七一ウ一〉 ヒナリ ヒト〈但し甲乙はヒトリにつくり、丙はヒチリに誤る〉
×(旁は麗/扁は酉)〈六九ウ七/七三オ五〉 ニゴリサ ニゴリサケ

斯かる例は今少々ある。垂〈上六オ七/一ノ六ウ七〉の如きは慶長版のタルヽを元和版がタヽルと誤つたので、眞草本は是れをカヽルの誤だらうとして訂正して居るのである。

だが此の反對に元和版の本文を破壞して居る例も無論少しではあるが存する。

×(元の下に黽を書く)〈三九ウ四/二三オ五〉 カハウソ カハウヲ
〈四〇オ五/二四オ三〉 アマリ〈餘分の利〉 テマリ
〈五一オ二/四二ウ五〉 音ソウ ソク
〈五四オ一/四八ウ一〉 タヽム クヽム
×(旁は圭/扁は衣)〈五五オ七/五一オ一〉 モスソ ミスソ
〈五九ウ一/五八オ三〉 ユヽシ(慶長版の如くユルシとある可きもの) コシ
〈六二オ六/六二オ四〉 カエル カイル
×(囗の中に元を書く)〈六二オ六ノ二/六二オ四ノ二〉 〈此の字、慶長版や元和版にケヅル・ツブルの二訓がある、元來圭角が無くなる義だから、ツブルはツブラ禿ツブリと同語で禿チビル義であらう、其れを眞草本はソフルに誤つて居る。〉
〈六三ウ三/六四ウ五〉 ワシ・ズ ワシス(慶長版ではズとワシは二行となり居り割注である、これを元和版は、接近させたのでワシズが一語のやうに見えるに至つたので、眞草本はズの濁點をとり、完全にワシスの一語としたのであるそれにしてもワシの訓の意味は判らない)

此の他、甲丙二本の中の何れかゞ誤つて居るやうな例は後で述べる。

草本が元和版に據つたものである事が判明したから、さらに兩者の關係を詳述して見る。先づ部首について云ふと、眞草本は元和版(及び其の親本たる慶長版)の部首と、數及び種類に於いて一致して居り四百七十七部であるが、順序に於いては、僅か二箇處の相異がある(部首に關して「玉篇の研究」には眞草本が増補本――即ち寛永五年に増補せられて五百四十二部と成つた本――より後れて出ながら、元の四百七十七部に還つた事を、「時代に逆行」したと説いて居られるが是れは眞草本の初刊を、寛永二十年であると認められたからであるが、事實は眞草本寛永四年九月に出て居り増補本は翌五年建丑月十二月の刊行であるから、眞草本は決して時代に逆行したものでは無いのである)。即ち眞草本は、草體が加はるため、元和版が一頁七行であるに反し、一頁五行と成つて居り、其の上文字の増補があるので、勢ひ紙の分量で云へば、八對五の關係で増加し、元和版のやうに三卷の儘ではすまされなくなるから、眞草本では五卷五册と成り、其の部首の各卷配當は

第一卷 一一より足七十一まで。八十三丁、他に目録一丁
第二卷 骨七十二より木百四十五まで。七十七丁、他に目録一丁
第三卷 林百四十六より叕二百四十八まで。七十六丁、他に目録二丁
第四卷 車二百四十九より燕三百三十九まで。七十七丁、他に目録二丁
第五卷 鳥三百四十より亥四百七十七まで。七十六丁、他に目録二丁
目録八丁、本文三百八十九丁〈元和版は目録八丁/本文二百三十五丁〉

と云ふ具合であるが、眞草本第二卷の最初が、「骨〈七十二〉〈七十三〉」の順であるに對し、元和版は其の逆であり、眞草本第三卷の卷首は「林〈百四十六〉〈百四十七〉」であるのに對し、元和版はこれ亦其の逆であると云ふ僅少の相異がある。何故第二、三の兩卷々首に於いてのみ斯う云ふ部首順序の相異があるのであるかは判明せない。

次ぎに本文は何う云ふ樣子であるかと云ふに、元和版では部首字を擧げるのに、慶長版同樣二枠を占めて居るが眞草本は一枠しか占めて居ないから、勢ひ其の空白の枠には、然る可き文字を挿入して、次行以下の文字群の位置が一字づつ繰上げに成るのを防ぐのが常だが、一部首所屬文字群の數が僅少である時は、繰上げもして居る。但し一概には云へない。とにかく文字の順序は殆んど元和版と同じだが、ところ〴〵で文字を變へ、(一例を鳥部で探ると六字が取りかへられて居る、又文字の上下の順を改めて居るのが一例あり)たりする事もある。扁旁の形を少し改めて居るものもある。しかして文字群についての最も大きな相異は、一部首所屬文字が、其の所屬文字群の末尾で、夥しく増補せられて居る事であり、第五卷で著名なる例を擧げると、

〈三百四十〉 十行三十七字
〈三百四十六〉 七行二十八字
〈三百四十九〉 十五行六十字
〈三百五十四〉 三行十二字
〈三百五十五〉 六行二十四字
〈三百六十二〉 五行二十字
〈三百六十七〉 十五行六十字
〈三百六十八〉 三行十字
〈三百六十九〉 十六行六十二字
〈三百七十六〉 五行十九字
〈三百七十八〉 十四行五十六字

と云ふ風に増加して居る。しかして此の増加した文字の數や種類や順序は、翌年の寛永五年十二月に出た増補本とは無關係である。

次ぎに訓注を元和版と比較するに、大體は元和版と一致するが、少しは相異もある。其の相異と云ふ中にも、元和版の訓注を除いたものは極めて少く、第五卷について云へば〈向つて右は元和版の丁數、左は眞草本のもの〉

〈二七ウ五/三ウ一〉 〈アヲ/馬ノアラン〉
〈二九ウ四/七オ二〉 〈サル/アメ〉
〈四一ウ七/二六ウ四〉
×(旁は建/扁は革)〈四六オ一/三四オ二〉 ヤブクロ(其の代りにヤヒツの訓あり)
×(般の下に革)〈四六オ一/三四オ二〉 ウワヲビ(其の代りにオホヲビの訓あり)
×(攸の下に革)〈四六オ二/三四オ三〉 クツハヅラ(其の代りにクツハミ/クツワの二訓あり)
〈四八ウ七/三九ウ五〉 ヘリ
〈五一オ七/四三オ五〉 カサヌ(共の代りにカサナルあり)
〈五一ウ三/四三ウ三〉 アガル
〈五二ウ一/四六オ五〉 ノツトル、ノリ、タツトシ(眞草本タツトブ、ツネの二訓あるのみ)
〈五六ウ五/五二ウ五〉 ヲヽツ
〈六一オ一/六〇オ四〉 ケイクワイ
〈六二ウ三/六二ウ三〉 ラル
〈六二オ三/六一ウ四〉 ヲヽブクロ
〈六四オ三/六五ウ二〉 スグナリ(元和版にはスグナリが二度も書いてある故(慶長版には然る事無し)一つを除きたるものなり)

の如き例がある位だが、訓を増した例は甚だ多い。例へば革部で擧げると

×(旁は叉/扁は革)〈四六オ三/三四オ四〉 ヱビラ
×(旁は畺/扁は革)〈四六オ四/三四オ五〉 ヲモツラ
〈四六オ六/三四ウ二〉 クビノカハ、ツヨシ
×(旁は皮/扁は革)〈四六オ六/三四オ二〉 ウハシキ
×(旁は茸/扁は革)〈四六ウ三/三五オ一〉 カザリ
〈四六ウ六/三五オ四〉 ムナガヒ
×(旁は免/扁は革)〈四六ウ五/三五オ三〉 クツ

の如くであり、其れ以後の文字について云ふと、糸部では二十九字につき、一訓二訓、時には三訓を補ひ居ると云ふ状況である。以て訓注増補の有樣を察するに足るであらう。

さて斯う云ふ眞草本の最初の刊行が何時であつたかは知らぬが――岡井博士が二十年本を最初とせられたのは宜しく無い――現存本では寛永四年九月のが最古である。ところで眞草二體節用集は慶長十六年に例があるが、二體節用集と稱するものが出たのは寛永三年六月である、そして眞草倭玉篇が眞草二體節用集の模倣である事は動かせないから、寛永四年九月版眞草倭玉篇を以て最初のものと認めて大過あるまいと思ふ。さて其の頃倭玉篇として何う云ふものがあつたかと云へば、慶長十五年初刊本、同年有刊所本、同年無刊所本、同十八年雙刊記本、同年單刊記本等の大本三册本があり、〈これらの事はすでに詳論した事である〉若し又所謂元和版なる美濃半截横本三册本が、果して元和版であつたとすれば、此の元和版が存して居た筈であり、然う云ふ時代に、寛永三年六月刊の横本の二體節用集をまねて横本としての眞草本が生れるとすると大本の慶長版から生れるよりも、其れを横本とした元和版より生れるのが體裁の上から云つて妥當であると見たい(尤も元和版は、横本であると云つても、行數段數丁數などは、慶長版の大本と變るところは無い)。しかして此の樣な豫想を以て眞草本を元和版と比較するに、事實、眞草本は、元和版に據つたと見られる。其の比較と云へば、元和版の本文が破壞せられて慶長版の何れとも異るものと成つて居る箇所〈此の事は「元和縮刷版倭玉篇補攷」で述べた〉を比較するのであるが、其れらの破壞せられた箇所はかなり眞草本で訂正せられては居るものゝ、やはり誤られた姿のまゝで眞草本に現はれて居るものがあるのである。其の例は左の如くである。

○上卷〈元本を中心として云ふ、丁數は右は元和本、左は眞草本だが、眞草本は第四卷までは丙本(後述)のみに據り第五卷は甲乙丙三本に據る。〉

〈二七オ二/一ノ四〇ウ二〉 シボル(シボム萎の義)
×(旁は曷/扁は鼻)〈二九ウ五/一ノ四四ウ五〉 ハナオキ(ハナイキ。〈オキソの風、オキナガ(息長)川の例から云へばハナオキも非とは云へなからうが、とにかく慶長版にはハナオキとは無い〉)
〈三八オ六/一ノ五七ウ五〉 トテソ(トラフ。〈字鏡集にも此の訓あり〉
×(旁は卜/扁は口)〈三八ウ一/一ノ五八オ一〉 ニラ(トフ)
×(旁は隽/扁は口)〈三八ウ五/一ノ五八ウ一〉 元和ソグム 眞草ソクム(ツグム)
〈四〇オ四/一ノ六〇オ五〉 オムル(ホムル)
〈四〇ウ五/一ノ六一オ三〉 ヲタク(ヲメク)
×(咸欠を左右に並べ下に糸を書く)〈七一オ五/二ノ三二オ一〉  ル{ レ}ロ( ル{ レ}ロ)
〈七七オ二/二ノ四〇ウ一〉 ウツフ(ウツス)

○中卷

〈二ウ四/二ノ五四オ四〉 セド(サト)
〈三ウ一/二ノ五五オ五〉 フキド(ワキド)
〈九ウ四/二ノ六五ウ一〉 ウツル(ウツロ)
〈一一ウ二/二ノ六八オ三〉 ハシダニ(ハシダテ)
〈一二オ四/二ノ六九オ二〉 キリギ(キクギ)
〈一二ウ五/二ノ六九ウ五〉 カウナシ(カラナシ)
〈二六オ七/三ノ一六オ五〉 ヌドノウラ(メドノウラ)
×(旁は亩/扁は木)〈三四オ三/三ノ三〇オ三〉 ソヽル(單ワヽル、有・無ウヽル〈植ウの義ならん、此の字康煕字典にも見えず)〉
〈四一ウ三/三ノ四三オ四〉 タツメ(タヅヌ)
〈四五オ四/三ノ四六ウ五〉 トカシ(ナガシ長)
〈五二オ二/三ノ六〇オ一〉 ツザク(ツンザク)
〈五六オ七/三ノ六六オ五〉 サベ(ナベ)
×(旁は秋/扁は車)〈六三オ三/四ノ二ウ三〉 ミツヽヤ(ミソノヤ)
×(旁は弗/扁は舟)〈六四ウ四/四ノ六ウ五〉 ツヽブネ(ヲヽフネ)

○下卷

×(旁は也/扁は火)〈三ウ七/四ノ四一ウ五〉 キエダ(キエヌ)
×(旁は出/扁は火)〈四ウ六/四ノ四三オ三〉 音 チユウ(チユツ)
〈六オ七/四ノ四五ウ二〉 コガシ(元和版にコガシ・コシと二行に成り居るを誤れるもの、慶長版はコガシコシとあり、これ一つにても眞草本が元和版より出た事認めらる)
×(广の中に卑)〈一〇オ七/四ノ五二オ一〉 イカシ(イヤシ)
×(厂の下に口口十を重ぬ、厚に同じ)〈一二オ六/四ノ五五オ三〉 音コ(コウ)
〈一三オ一/四ノ五六オ五〉 タチ(タケ)
×(旁は甚/扁は石)〈一三ウ二/四ノ五七オ二〉 音ケン(チン)
〈一七ウ三/四ノ六四オ五〉 元ハス馬、眞草ハスムマ(ハス〈レ〉馬)
〈一九オ六/四ノ六七オ四〉 スヽメ(スヽム)
〈一九ウ一/四ノ六七ウ一〉 モク(モノ)
〈三二オ三/四ノ七二オ一〉 ミダガハシ(ミダリガハシ)
〈二四ウ七/四ノ七六ウ一〉 モロヨシ(モコシ)
〈三三ウ七/五ノ一三ウ四〉 ヤマグチネズミ(アマグチネズミ)
×(旁は召/扁は虫)〈三五オ五/五ノ一五ウ三〉 ツクヽボシ(ツク〳〵ボウシ)
〈四六ウ二/五ノ三四ウ五〉 キザス(キザム)
〈四九ウ六/五ノ四一オ三〉 ツナソ(ツナグ)
×(旁は鼻/扁は衣)〈五六オ三/五ノ五二オ一〉 ワタバカマ(ハダバカマ)
〈六〇ウ二/五ノ五九ウ三〉 イカデ(イカデカ)
〈六四オ六/五ノ六五ウ六〉 ナカシ(元和版ナガシ、慶長版ナカレ)
〈六四オ五/五ノ六五ウ三〉 カヽル(カルヽ)
×(旁は禹/扁は孑)〈六八ウ一/五ノ七一ウ一〉 元・甲・乙ヒナリ、丙ヒチリ(ヒトリ)
〈六九ウ三/五ノ七三オ一〉 バツ(慶長版に無し)

これらに據り、眞草本が元和版に基くものなる事が判る。

尤も右の如き事實を指摘したゞけでは、輕卒な論者は「元和版から眞草本が出たのでは無く、眞草本から元和版が出たのであり、元和版は實は元和版では無いのだらう、元和版が事實元和版であるならば、眞草本の最初のものは更に其れより古く元和年中に出版せられて居たのであらう」と云ふ風に考へるか知らぬが、〈實は其れも不可能だが〉しかし此の疑は成立せない。第一に一部首所屬文字について云へば、元和版では順序も數も種類も全く慶長版と同じであるが、眞草本では大いに異り居り、數と種類とに数十字の相異の存するものがある。斯かる事は、眞草本が元和版を土臺として増補せられたものだと見れば解釋が容易だが、其の反對に眞草本の増補部分をわざ〳〵除いて慶長版と同じ本文の元和版を作つたのであるとはとても考へられない事である。次ぎに又、訓註を比較するに、元和版は慶長版と同じであるが、眞草本では増加して居るものが隨分にある。しかして此の事實も亦、元和版を土臺として訓註を添加した眞草本が出來たと見る材料とは成るが、眞草本の訓註の一部を除いて、慶長版と同じ元和版が出來たとは決して考へられないのである。なほ眞草本の版心が「和玉五卷」と云ふ風にあるのは、「和玉篇卷下」と云ふ風である慶長版よりも、篇字を省いて「和玉下」と云ふ風に成つて居る元和版に基いたと見る事も出來るであらう。

要するに、横本たる元和版から模本たる眞草本が生れたのである事は動かせないと信じる。一體此の元和版と云ふのは、慶長版とは異り刊記が無いので、元和版であると云ふ確證は無く、たゞ版式より見て慶長版の模倣縮刷古版たる事は動かせないから、元和頃に出版せられたのであらうと推定せられるに過ぎないのであるが、今や寛永四年版の眞草本との比較により、少くとも寛永四年の眞草本よりは古い出版である事が判明し、これが元和頃の版であらうといふ推定に一つの證據を得たわけである。

  • (未完)

さて中島翁本は寛永四年九月版、寛永二十年四月摺本、寛永二十一年七月版〈此の年十二月二十三日に正保と改元せらる〉の二版三種であるが、前二者は何れも第五卷のみの零本であり、二十一年本のみが完本である。だが此の四年版(及二十年本)とニ十一年版とは、第五卷について云へば、冠彫カブセボリで全く同じであるから〈細部に於ては小異の存する事は、調査せずとも考へ得る〉今二十一年版を以て寛永版眞草倭玉篇を代表せしめて體裁を説くに、美濃半截五卷五册の横本で、本文は一頁五行四段、目次のところは八行五段、各卷々首には「眞草倭玉篇卷一〈目録〉」と云ふ風に陰刻し、本文最初にも「眞草倭玉篇卷一」と云ふ風に陰刻しあり、卷尾内題は陽刻にて「眞草倭玉篇卷一終」と云ふ風にある。行段は界線で劃せられて居るが、一枠の中を縱に少し界を施し、向つて右側に主の位置に楷書を左に從の位置に草書を書き、〈此の主從の關係は眞草二體節用集とは正反對である、節用集では言葉が主であるから、行草體を主たる本文としても可いが、倭玉篇では、部首分類式だから、眞書を主とし、草體を從とする他は無いのである。但し後には此の逆のものも出て來る。〉音は一音の時は楷書の右に、二音の時は左右に書き、訓は楷書の下に書き、普通は一字一枠だが、訓註の多いものはまゝ二枠を占めて居る。草體は必ず存し、籀文や古文にも草體を書いて居るが、これは妥當であるとは云へない。部首の數や種類は慶長版や元和版と同じく、本文の部首字の上の飾模樣も、慶長版や元和版と同じである。第五卷は七十六丁の裏頁に本文が二行あり、第三行は卷尾内題にて「眞草倭玉篇卷五終」とあり、第四・五の二行に刊記がある。此の體裁は三本とも同樣で「玉篇の研究」に見えた二十年本の寫眞を見れば可い。

倭玉篇の一類に眞草倭玉篇と云ふのがある。眞體即ち楷書體に草書體を添へたもので、節用集の二體節用集〈草を主、眞を從とした二行節用集にて、二體節用集の名のあるは、寛永三年六月刊の三卷横本が最初であるが、實質的には、既に慶長十六年九月刊行の美濃型二卷二冊本がある〉を模倣したものである。慶安以後版がかなりにあるが、寛永版が最も古いらしく、元和版の有無は不明である。其の寛永版に二種の異版がある。書物も寛永版と云ふのでは、活字版と云ふやうな物で無い以上は、版本として珍しいものとは云はれないが、其れでも割合に少いらしく、從來は一種の存在――しかも零本である――しか説かれて居ないのだから、遼豕ながらも敢へて紹介せうとするのである。

さて眞草本の事を最初に説かれたのは、岡井愼吾博士であつて、共の大著「玉篇の研究」〈昭和八年十二月刊〉

寛永二十年本。  卷三・四・五を合せて一冊とせる零本、今神宮文庫に藏せらる。縱四寸、横六寸四分の横本にて眞艸兩體を收む。開卷の初行には白字にて 眞草倭玉篇卷三目録と出して、毎行七段、卷四・五のもつぎ〳〵にあり。その部首を見るに非増補本なるが、順序はやゝ違へる所もあり。本文は四段、右に眞書、左にその艸體を並べ書し、音訓は眞書のに附けらる。巻末に左の三行あり。

寛永癸未初夏吉旦  三條通菱屋町  林甚右衞門

此の書にも前後兩版あるに似たり。九州帝國大學の春日教授は卷二・四の二本を藏せらるゝが、其の卷四を神宮文庫本に比するに、全同なれども紙質印刷ともに較劣り(同文庫司書岡田君の説に據る)而も卷二に比するも亦同樣の觀あるは、卷二は必ずや神宮文庫のと同板たるべく、卷四は其の後刷たらん。而して此の二本は舊の題簽を存して五本として出せること明かなれば、神宮文庫のは後に合綴して目録を纒めて出しゝならん。其の一・二と三・四・五との二本に纒めたるか、三・四・五のみ存せるを然せしかは今詳にしがたし。眞艸本は管見にてはこれを始とす。徳川時代には公文書を初め、通用の字體は艸書なりしかば、此の書の時好に投ぜしや知るべく、是、非増補本の如き、時代に逆行せしものゝ、猶こゝに至りて世に行はれたる所以ならんか。

と記して居られ、〈○以上全文引用〉第三卷の本文第一頁と第五卷尾の刊記の頁とを、寫眞で示して居られる。博士の見られた本は、神宮文庫のも春日教授のも零本であり、二種を加へても完全では無い本であつた。「玉篇の研究」の刊行の前年、即ち昭和七年一月三十一日には、倭玉篇の蒐集者であり、「玉篇の研究」の中に引用せらるゝ「和玉篇考」〈但し未刊本〉の著者なる大谷大學教授龜田次郎氏が、谷大國文學會の主催で、其の多年の蒐集にかゝる倭玉篇の展觀をせられ、私も參觀したのだが、寛永版眞草倭玉篇は一部も出品せられては居らず、其の時の講演で同氏も神宮文庫本を擧げられたのである。また九州帝大國文學研究室は、昭和十一年十一月に古辭書類展觀を催ほされ、春日教授の御藏書も出陳せられ、寛永版倭玉篇も三種、同教授御所藏本が出陳せられたが、眞草本は出なかつたのである。以て寛永版眞草倭玉篇の割合に少い事を察するに足るであらう。岡井博士が眞草本の最初のものを、寛永二十年版とせられ、其れに伴ひ、時代に逆行云々と云はるゝ事が妥當で無い事は後に言及する。

ところで私は其の後、書肆の店頭や古書即賣會で、寛永版を二・三度は見た。しかし倭玉篇としては、慶長版や元和版を重視すべきである事を知つて居る私は、寛永版眞草本の如きは重視せないので購求はせなかつた。だが今年の六月下旬頃であつたかと思ふが、書肆の目録に寛永四年版の眞草本の第五卷零本一册が出て居たので、刊記が古いので注文したところ、賣切で手には入らなかつたが、これが中島翁の御手に入つたので、私が始終古書拜見に就いて御世話に成つて居る中島仁之助翁より、其の寛永四年版の他その後摺本たる二十年版、別の異版たる二十一年版等を恩借する事出來て、岡井博士の記述を補足するだけの知識を得る事も出來るに至つたのである。其れで今三本により寛永版眞草本の事を説かうとするのである。