一二三 轂輞(五九)

○一二三 轂輞(五九)  上己之岐コシキ、下
慧苑に無し。經文〈二八〇オ下二〉に菩薩轉㆓法輪㆒、如㆓佛之所轉㆒、戒轂三昧輞とあるもの、法輪だから車に關した語で譬へたのである。輞は輻とも云ひ、車輪を形成する放射線状の棒状の木にして、其れがアツマる所がコシキである。我が國では弓矢の矢に喩へてヤと云ひ〈和名抄に見ゆ〉支那では月の日數を象りて普通三十輻であるため、其れを直譯したミソノヤと云ふ語も出て居る。しかし支那では輻を矢に比しては居ないやうだから、こゝに矢也とあるは、ヤと云ふ國語を示すものと見て可いと思ふ。石山寺藏大般若經音義中卷にも輻輪の項に輻字を「倭言車箭也」と説明して居る、これもクルマノヤと訓むべきである。なほ同音義には輞を「倭言車乃大倭」即ちクルマノオホワと訓じて居る、これは輪の義である。さて車のコシキは新撰字鏡や和名抄にも見える。これをコシキと云ふは、飯を蒸し炊ぐ器物のコシキ(字は甑)と形が似て居るからであり(從つて、右の石山寺藏大般若經音義中卷はまさしく「倭言車乃甑也」と註して居る)其の炊事用のコシキは、萬葉の貧窮問答歌に、許之伎ニハ蜘蛛ノ巣カキテとあり、和名抄にも見える。コ、キの假名は萬葉の用例と一致する石山寺大智度論第一種點にも輻輞をヤ〉