前田家本は古寫本だから、木版本よりは無論勝れて居るが、中には惡い所もありて、其れは解説で指摘せられ居る。が其の中で一番大きな錯簡に關する説明が少し不充分であると思ふから左に述べる。其れは上卷眞如法親王傳の所であり、木版本で云へば一丁裏八行の「ことはりにもすぎてわづらひおほ」の下から、三丁表九行の「と侍る事思いでられて」の上までの三頁分に相當するものに於いて、爲相本に錯簡が生じて居る事であつて、譚玄本も此の通りであり、木版本、續類從本、神宮文庫本等は一類で同じ本文であると云ふ。池田氏は、「何故に、このやうな錯簡が生じたかは、今の所不明といふより外はない」と云はれるが、これは實は千慮の一失であつた。

今爲相本を見るに、四丁表より裏への續き、又五丁表より裏への續きは、文章も續いて居り、何ら異状は無いが、四丁裏より五丁表への續き具合は「異代にかへしなど」と、動詞・助動詞の接續は正しいが、文章としては連絡が無い。しかして斯う云ふ事は、三丁裏から四丁表へ續く所に於いても、五丁裏から六丁表へ續く所に於いても云ひ得る事である。だが、此の四丁二頁五丁二頁を、木版本とたゞ比較しさへすれば、爲相本の五丁裏から逆に四丁表へ文章が續き居る事が判るであらう。こゝまで述べて來たら今はも早や冗説する事は不要である。爲相本の四・五の兩丁は綴ぢ誤られて、表裏が逆に成つてしまつたのだ、即ち、今のまゝの丁附では、三丁裏、五丁表裏、四丁表裏、六丁表の順に改めれば、文は完全に續くのであつた。要するに、御物更科日記に見るに似た錯簡が、爲相本にも存するのであるに過ぎない。此の錯簡は前田家で、今の表紙を添へるため改裝する時に生じたものであるかも知れない。

こゝの文に、木版本〈三オ五〉では

この人菩薩の給はざる事なし。汝心ちいさし。………

と成つて居るのがあり、濁點も施してあるが、此の儘では此の文全く意が通せない。然るに爲相本にては「給」字が「行」字と成り居り、

この人菩薩の行はさる事なし、汝心ちいさし。………

とあるのである。是れでこそ意は通じる、こゝは「この人」即ち化人が親王のやり方を難詰して、「菩薩のぎやうる事無し」、菩薩行は然う云ふ事、であつては宜しくない。汝は心が狭小だ、そんな人間の施物は受けないぞと拒絶した事を云つて居るのである。解説が「この人菩薩の行はざる事なし」と濁點を施し、「おこなはざる事」と動詞の否定に讀んだのは誤であつた。菩薩行と云ふ名詞である。

因みに云ふ、眞如法親王が渡天の途中羅越國で、虎害のため遷化遊ばされたと云ふ事は、廣く傳へられて居るが、正史には見えない事で、學者は俗説として一蹴して居る。斯う云ふ俗説が何時頃より行はれ出したか知らぬが、大日本史東大寺凝然の著述を擧げて居る。しかし凝然は仁治元年の出生にして、仁治元年は閑居友の出來た承久四年よりは十八年も後である。虎害云々の事は親王の傳にも書いてないから特に記すと特記して居るのを見ると、本書の如きは虎害説を記したものとしては古い方であるかも知れない。

本書の本文としては、寛文二年四月版〈後摺もある〉と續類從中の活版本とが存したのだが、傳爲相筆と云ふ極札ある鎌倉末期の古寫本が、今度複製せられたのであるから、學界としては大變悦ぶべきである。校異表は、前田家所藏の譚玄本、其の他木版本、續類從本、神宮文庫の村井古巖獻納本等との校異を示したもので實に結構である。自分は木版本と爲相本との相異を版本へ記入したのであるが、自分が木版本でいぶかしく思うて居る條――それは多くは無い――を、爲相本にあたつて見た結果「とうとく」〈貴の義、上二二ウ、四二ウ〉「たとひとりたるとても」〈下一一オ〉「かみはそらけあがりて」〈下二五オ〉の校異が漏れて居る事を知つた。即ち爲相本では其れ〴〵「たうとく」「たとひとりたりとても」「かみはそそけあかりて」とあるのである。此の校異表は、假名遣や比較的重要で無いものは取り上げない方針らしく、(假名遣の如きは擧げる必要も無く、又擧げきれるものでは無い、但し、「お」「を」の混同甚しく、助辭の「を」を「お」で示す事の多いのは、注意すべきである)其れは認め得る態度であるが、「とうとく」の例は音韻史的に見て重要であるから、木版本の誤なる事を示して然る可く、「たとひとりたるとても」も爲相時代の語法としては(無論承久四年の語法としても)注意すべきであるから、爲相本では然うは成つて居ない事を、積極的に示してほしい所であつた。「そそけあがりて」に至りは見落しだらう。

慶政説を支持するにも、否定するにも、今少し慶政の傳記を明らかにせなければならないのだが、其れが今のところ困難である。

例へば、本書の作者の生地は、上卷末の記事に「からはしちかき川原」〈爲相本は誤寫して居る〉が作者の「ふるさと」に近かつたと記して居る事により、京の人であつた事が判るから、慶政の生地が他日判明して、京の人であつた事が判れば、本書を慶政に擬する一傍證〈傍證にならぬ場合も無論ある〉揚を得る事に成るし、地方の生れであるとすると、慶政否定の確證と成る。だが此の慶政の生地は今のところ不明である。(此の唐橋近き川原は、九條坊門の賀茂川原であらう。)

慶政は文永五年に歿して居る。建保五年よりは五十一年後である。渡宋僧で渡宋の時の年齡の判明して居る人に就いて云ふと、榮西の初度の入宋は二十八歳の時、俊芿は三十四歳、永平道元は二十四歳であつた。慶政は建保五年に二十五歳であつたと假定すると、七十六歳で歿した事に成り、三十歳であつたとすると八十一歳で歿した事と成り、承久四年は、それ〴〵三十歳、又は三十五歳であつた事に成る。ところで本書に現れた作者の年齡は何歳ぐらゐであつたらうか。明確に書いたものとては無論無いが、名聞を捨て、隱遁生活を讃美するところなど、何うも老人じみた面影が見えるのではあるまいか。三十歳や三十五歳の壯年の僧を想像するのは何うも困難なのではあるまいか。但し是れは全く、現代人としての自分の主觀に過ぎないから、斯う云ふ事は問題と成らぬであらう。

本書は何時頃よりか知らぬが、慈鎭和尚の作であると傳へられて來たが、烱眼なる契沖は、丁度、同じ樣に慈鎭作と傳へられて來た色葉和難抄をば、然に非ずと否定した如くに、本書も亦慈鎭の作で無い事を明言した。其れは本書の著者は渡宋僧である事が判るからであり、的確な論である。著者の渡宋の事は、木版本では「もろこしにまかりて侍しにも云々」〈上卷一六オ〉とあるものだけしか指摘できないのだが、他にも

もろこしに侍しと人のかたり侍しは云々

もろこしに侍しときゝ侍しは云々

と云ふ類の話句が、下卷〈一五オウ/一七オ〉、に三箇所見え、自分はこれらをば文意上必ず「もろこしに侍りしとき聞き侍りしは(かたり侍りしは)」で無ければならぬものと考へ、これらをも作者の渡宋を示す語句としてかつて擧げたのであるが、前田家本を見るとまさしく、「もろこしに侍し時云々」と云ふ風に、三箇所ともに「時」字を明記して居るのを知つたのである。なほ上卷〈三二ウ〉

されば、もろこしには、いかなるものゝひめ君も、くひものなど、しどけなげにくひちらしなどはゆめ〳〵せず、よにうたてき事になん申侍し也、この國はいかにならはしたりける事や覽、はやくせになりにたれば、あらためがたかるべし

と、慨歎して居るのも、渡宋を證明する材料に成るだらう。〈これも以前に擧示したのである〉

慈鎭説を否定した契沖は、松尾の慶政上人の作であらうとした。いかにも本書の作者が、下卷末で

西山のみねの方丈の草のいほりにてしるしおはりぬる

と自記し居るから、慶政に擬する事も可能に成る。だが積極的な證據は無いのであり、逆に池田氏が指摘せられた通り、反證さへ出て來さうである。即ち慶政は嘉定十年丁丑〈わが建保五年〉には支那泉州にて、南番文字と云ふを寫し居り、其の後間も無く歸朝したかして、建保七年一月には、續本朝往生傳や拾遺往生傳を、西峯の方丈にて寫して居るのである。ところが閑居友の作者は、承久四年三月頃を基準としたらしいが、「此あやしの山の中」に身を隱して「八とせの秋おをくりきぬ」と云つて居る〈上九ウ〉承久四年より八年前と云へば、建保二年と成る。だから閑居友の作者を慶政とすると、建保二年頃から「あやしの山の中」に隱棲して居ると云ふのと合はない。故に、これらの記事に誤が無いとすれば、慶政を作者とする事は出來ないのである。

前田家藏傳爲相筆本閑居友を見て

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 23(4): 11-24 (1940)

前田侯爵家の傳爲相筆閑居友上下二帖が、尊經閣叢刊戊寅歳配本として、本年四月二十日附けで複製せられた。たま〳〵先日藤井乙男先生の御宅へ參上したところ、「見たか」と云つて本を見せて下さつた。私が以前〈昭和五年九月の藝文にて〉閑居友と發心集の關係について述べた事があるのを、御記憶に成つて居られたからである。恩借してかヘり、拜見した。今までに刊行せられた諸本と同じく、まことに有難い複製本であり、池田龜鑑氏の執筆せられた綿密な解説〈五十五頁分〉があり、さらに諸本との校異表〈五十頁分〉も添うて居る。何れも勞作であり、此の解説と校異表とありて、此の貴重なる複製本は、いよ〳〵丸其の價値を増大せしめて居る。さて此の本を見たについて感じた事どもを記して、かねてより請求せられて居る本誌の埋草的原稿とする次第である。池田氏の解説を批判する事もあるが諒恕せられたい。

歌人藤原長能の歿年に就いて

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 27(3): 41-44 (1942)

蜻蛉日記の記者との肉親關係や、(異父兄であるらしい事が吉川氏により推定せられた)公任の一言で悶死したと云ふ不名譽な逸話やらで、比較的よ−名の知られてゐる歌人藤原長能ナガヨシの歿した年についての考説が、すでに發表せられて居るのか何うかをわたしは知らないし、また確めようともせないが、吉川理吉氏の「藤原長能とかげろふの日記の記者ら」〈國語國文本年六月號〉によると、何も説は出て居ない樣である。當の吉川氏は、長能の生年を以て、天慶元年よりは前で、承平六年の出生と推定せられる蜻蛉日記記者よりは、少々の年長であらうと推定し、長能の晩年の任官たる寛弘六年の伊賀守就任も、七十餘歳である筈だとまで云つて居られるのだが、何うした事か、歿年の推定は全く試みては居られない。そこで私の臆案をこゝに述べようとするのであるが、實を云へば、吉川氏の文を見て思ひついたものである。其の推測の鍵は、寛弘六年の任伊賀守と云ふことであり、私は此の寛弘六年の二・三の兩月の中か、四月のはじめ頃までに、長能は死んだのでは無いかと想像する。


長能が花山院崩御の寛弘五年二月に、崩御を悼み奉る歌を詠み、四月十八日には老年ながらも左大臣道長の賀茂參詣道長は内覽だから、關白の御賀茂詣でに相當する)の陪從を勤仕して居るから、翌六年正月廿八日に伊賀守に任ぜられたと云ふ中古歌仙傳の記事も、日記類には見えないがうべなひ得る。正月の普通の除目に於ける任官であつたのだらう。

正月末に長能の任ぜられた伊賀は、何うした譯であつたか、二ヶ月餘りの後の四月五日に成りて、源爲憲が任ぜられて居るのである。そして此の事は道長記や行成の權記に明記がある。

此の伊賀守は、二年餘り後の寛弘八年十月五日に、またもや交替があつて、藤原信通が任ぜられて居る。此の信通の事は權記に見える。要するに伊賀は

  • 寛弘六年正月廿八日、任藤原長能
  • 同 六年四月五日、任源爲憲
  • 同 八年十月五日、任藤原信通

と云ふ具合にて、交替が頻々である。そして爲憲の後の信通は、爲憲が此の時、七十歳以上、八十歳近くの高齡であり、また勅撰作者部類が、何う云ふ根據があつての事かは知らないが、寛弘八年八月歿と云つて居ることから考へると、多分は爲憲が死んだがために、死闕に對する信通の任官があつたものだらうと想像せられる(權記には死闕と云ふ樣なことは記して居らぬ)

さて溯りて爲憲の任ぜられた時の事情を考へるに、道長の日記には「伊賀國闕、被任爲憲」とあり(權記の記事は生憎にも抄記が手許に無い)、其の正月に長能が任せられて間も無い事であるから、臨時の闕である事は想像に難くは無い。ところで其の臨時の闕が何うして生じたかと云ふと、普通は死闕を考へてよいのだが、長能が此の時七十歳以上の高齡であつたことを思ひ合せると、此の時長能が死んだからであると想像するのが最も妥當ではあるまいか。しかして四月五日に後任の任命がある程だから、長能の死んだのは、其れより程近い頃であつた筈である(當時、地方長官が死んだやうな場合に、大體何ヶ月、又は何日目ぐらゐに後任が決定したのであるか、と云ふやうな事は、私は知らない)


ところで、こゝで想起せられるのは、長能が花山院で三月盡の歌を詠み、小の月の三月二十九日に春の盡きることを「心憂き年にもあるかな二十日あまり九日と云ふに春の暮れぬる」と詠んで、當時の歌壇の權威公任に「春は卅日やはある」と非難せられ、其れを苦に病んで不食と成り、結局其のために死んだので公任も後悔したと云ふ話〈袋草子卷二〉であるが、これが事實であるとすると、三淵盡と云ふ樣な歌であるから、大體此の歌を詠むのにふさはしい頃に詠んだと見たいところである(題詠と見れば必ずしも嚴重なことも云へないが)。しかして然う見ると云ふと、四月五日に爲憲が伊賀守に任ぜられて居る事と、極めて接近して居ていかにも、似つかはしい事と成る。即ち、三月盡の歌を三月の末にでも詠んだ、公任が其れを非難した、老齡の長能が、苦に病んで他にも病氣があつたのによらうが、ころりと歿した、そこで爲憲が伊賀守の後任と成つたと云ふ事になり、まことに事の順序がよろしい。しかして此の場合に、寛弘六年の三月が、小の月であれば、いよ〳〵誂へ向きと成るのであるが、此の點は殘念ながら一致せない。寛弘五年までの八年間は、三月は引き續いて小の月であるのに、生憎にも寛弘六年よりは大の月と成り、これが六ヶ年續くのである。

斯う云ふ譯で三月二十九日に春が盡きたと云ふ事は、寛弘六年の實際とは一致せないが、事實の如何は問はず、長能は寛弘六年に詠んだのだ、此の歌では二十九日で盡きると云ふのが眼目であり、長能としては、この眼目を誇示したのであらう、ところが意外にも歌壇の大御所公任により、其の眼目が無雜作に非難せられたのだから、老齡の長能には甚しくこたへたらしい、此のために死んだのか何うかは判らぬが、とにかく長能が晩春頃か、若しくは四月の月はじめにでも死んだものと見ては何うかと云ふにやはり、それは駄目である。

一體此の歌、長能の家集では「花山院に、三月小なりし時、春の暮惜しむ心、人々よみしに」とあつて、花山院の法皇御所にて、恐らくは法皇御存生中に、三月がまさしく小の月であつた時に詠んだと見るのが正しいから、いくら遲くとも寛弘五年三月か、それ以前で無ければならない事と成る。そして假りに法皇崩御後の寛弘五年三月の末頃に、花山院にて、法皇をしのびまつるために歌人共が集りて歌詠んだ事があつて、其の時に長能が此の歌を詠んだのだとすると、長能は其の年の四月十八日の御賀茂詣の陪從もつとめて居り、翌六年正月には伊賀守に任ぜられても居るのだから、公任の一言を苦に病んで死んだと云ふのは、事實では無いことゝ成る。長能集の編者は長能自身であるか、他の人であるかは知らないが、家集の詞書を信ずる以上は、公任の一言で長能が死んだと云ふのは、そらごとであつたのだ。だから、此の歌により長能の死んだ時期を考へるは無意昧となる。


とにかく、長能は正月末に伊賀守に任ぜられると、恐らくはまる二月も經過せない中に、三月中にでも死んだのではあるまいか。そこで源爲憲が四月六日に死闕に拜任したのであらう。

長能の歿年に關する私の臆案は以上の如きものである。

  • (七月十三日、病床上にて記す)

以上で大體眞草本と元和版との關係を略述したつもりだが、斯う云ふ寛永版眞草倭玉篇としては、自分の見うるものは次ぎの如く三種ある。三種の中一つは後摺で刊行所の異る本であり、版種としては二種である。しかし其の二種は、冠彫關係にあるため、不注意では混同してしまふ恐れがあるのである。

○甲本、寛永四年九月版

第五卷のみの零本一册で、栗皮表紙は本來のものと信ぜられるが、題簽は無い 縱四寸五分に横六寸九一分五厘、本來の大きさであらう。摺は良好である。刊記は

寛永〈丁/卯〉
  九月  日          源古開板

とある。干支の卯字の所に大きな虫損がありても少しの事で卯字が不明と成るところであるが、幸ひにも卯字である事は、字は缺け乍らもはつきりして居るから、寛永十四丁丑の年では無いかなどと云ふ疑ひを起す必要が無いのは喜ばしい。此の本、今年の六月頃の東京大屋書房の目録に出て居たもので、早速注文し賣切れたとの報で落膽したが、始絡私が古書について非常な御世話を蒙つて居る中島翁の御手に入り、翁より他の乙丙二本と共に恩借を許されたのは、感謝に堪へない事である。さて刊行者「源古」と云ふのは、不完全極まる慶長以來書賈集覽なんどには見えないが、元和五年十二月版横本節用集や、元和九年正月中旬刊行の無言抄の刊者源太郎と關係があるのでは無いかと想はれる。源太郎が剃髮でもして源古と云ふ樣な名を名乘つたのでは無からうか。

○乙本、寛永二十年四月本

中島翁御所藏本で、第五卷のみの零册である。澁表紙は古いものだが本來のものでは無い、四寸丁分五厘に六寸七分、綴糸の所に裁縮のある事は、舊い綴糸の穴が露出して居る事で判る、天地の幅も他に比べると少く、地の郭線の切り取られて居るのもあるから、こゝにも裁縮がある。摺りは惡い方である。それは中島翁も私信の中で明記せられたやうに、本書が寛永四年版の後摺本であるからである。刊記は

寛永〈癸/未〉初夏吉旦
   三條通菱屋町
   林 甚右衛門

とあるが、求版刊行者である。此の刊記の頁と第三卷の本文第一頁とは「玉篇の研究」に寫眞が出て居る。(條字は何故か三水と成つて居る、菱屋町は、東は高倉、西は東洞院の間の三條通を云ふ)

○丙本寛永二十一年七月版

中島翁本、五卷を一・二、三・四、五と三册に合綴して、新しい樺色表紙が添へてあるが、これは翁が自ら改裝せられたもので、本來五册本であつた事は明白である、四寸五分に六寸九分、摺り佳良。眞草本の册數に關して岡井博士は推測して居られるが、右の甲乙丙の三本や、私が書肆で二度か三度見た本が、何れも五册本であつた事から、眞草本は五册が定型である事が明言できる。さて刊記は蓮花上の碑に

      寛永〈甲/申〉孟秋下旬
      杉田勘兵衞尉開板

とある。本書は寛永四年の初版の摺りの惡いものか後摺の二十年本を冠彫の底本としたものらしい。

現在のところ寛永版として私の知つて居るものは右の二種三版のみである。

さて右の二種の本文を比較して見よう。ついでに元和版とも比較する。

元和本 甲乙本 丙本
×(龍の下に鳥)〈二六オ三/一オ三〉 音レウ 同上 シウ(誤)
×(與の下に鳥)〈二六オ五/一オ五〉 カラス 同上 カラ(誤)
×(旁は式/扁は鳥)〈二九オ二/五オ四〉 ソシトリ 同上 ヲシトリ(慶長版ソシトリ)
〈三〇ウ六/八ウ四〉 舟ナドノハタナリ 同上 舟ナドノルタナリ(誤)
ヒレ 同上 ヒト(誤)
×(旁は焦/扁は虫)〈三八ウ二/二〇オ四〉 タコ 同上 タニ(誤)
〈三八ウ五/二〇ウ二〉 クチバシ 同上 タチバミ(誤)
〈四一オ四/二五ウ一〉 ユタカ 同上 コタカ(誤)
〈四一オ二/二五オ四〉 音クウ(誤) 同上 クワ
〈ナシ/二六ウ一〉 ソナフ ツナフ(誤)
×(旁は致/扁は角)〈ナシ/三二ウ二〉 クツノノコ(誤) クツノソコ
〈四六オ二/三四オ三〉 ブチウツ 同上 ブチウソ(誤)
×(旁は長/扁は革)〈ナシ/三六ウ三〉 ユミヲハナス エミヲハナス(誤)
〈四八オ五/三九オ一〉 ホソヌノ 同上 ホノヌノ(誤)
〈四八オ五/三九オ一〉 ハナツ ハナツ ハニツ(誤)
×(旁は并/扁は糸)〈四九オ三/四〇オ三〉 アワス 同上 アフス(誤)
〈五〇オ四/四一ウ三〉 ヒポサス 同上 ヒボサメ(誤)
×(旁は出/扁は糸)〈五〇オ六/四一ウ五〉 ツナグ 同上 ソナグ(誤)
×(旁は失/扁は糸)〈五〇オ七/四二オ一〉 音チツ 同上 ヂツ(誤)
〈五〇ウ四/四二オ五〉 サイワイ 同上 サイソイ(誤)
×(旁は沓/扁は巾)〈ナシ/四九オ三〉 タレヌノ タレヌ(誤)
〈五五オ二/五〇ウ一〉 ニシキ 同上 コシキ(誤)
〈六一ウ五/六一ウ一〉 ヌク メク(誤) ヌク
〈六二ウ一/六二ウ一〉 トラワシビト(誤) 同上 トラワレヒト
〈七八オ七/七一オ五〉 ナガラへル 同上 カガラヘル(誤)
×(旁は禹/扁は子)〈六八ウ一/七一ウ一〉 ヒナリ(誤) ヒトリ ヒチリ(誤)


これで見れば、元和版と甲本(寛永四年版)乙本(甲本の二十年摺本)とが大差なく、丙本(二十一年版)が、元和本や甲乙本と大いに變り居り、本文の破壞率の多いのが判るであらう。慶長版では十五年の初刻本と其の後摺本なる有刊記本とが良く、元和版は其れらに劣り、眞草本二種の中でも、後の刻本の方が惡いのである。古版の尊ぶ可き所以を痛感する。

それにしても丙本は甲乙兩本の何れを版下としたものだらうかと云ふに、縱字〈四八オ五/三九オ一〉の例を見るに、ハナツと云ふ訓が、甲本では明確にハナツとあるのに、丙本ではナがニとでも讀む外無い字となつて居る。しかして何故さうなつたかと云ふに、乙本ではナ字の第二畫が交叉點以下を失ひ、しかも第二畫の頭には筆勢により生じた餘筆が存し、ニの樣な形と成つて居る。丙本はつまり是れを判らす乍らも忠實に摸刻したのであつたのだ。それで是れ一つでも、丙本は甲本の摺のの惡いもの、又は乙本の冠彫である事を認めて可いであらう。

寛永四年版(甲本)が出てから十六年目に、其版木が、求版により二度(或ひは、三度目又は四度目であるかも知れない)の勤めをして居るのだが、二十年本は、案外摺も甚しくは惡くは無い。これで見ると、眞草本は、節用集の二體本が時好に投じてよく行はれたのとは異り、餘り行はれなかつたのでは無からうか。しかし二十年本の直ぐ次ぎに二十一年版の異店改刻があつたのを見ると此の頃は以前と異りて需要も増加して居たらしい。

寛永版眞草倭玉篇の紹介は以上の如き書誌學上の記述を以つて了へる。國語學上の考察は寛永本などに於いては重視すべきで無いと思ふから止める。さて眞草本には

  • ○新刊眞草倭玉篇 三本 増補本系にて無刊年、寛永慶安間ならんと推定せらる。眞體を上に、草體を下に書き、一頁九行九段。
  • ○慶安二年正月版「眞草倭玉篇」、横本五册、各卷の目録や本文の丁數は、寛永版眞草本と全同である由「慶安二〈己/丑〉歳孟春上旬、杉田勘兵ヱ開板」であるのを見ると、同じ店から出た寛永二十一年版の冠彫か後摺りかの何れかであらう。異版であるとしても殆んど同じ體裁のものであらう。
  • ○慶安三年版 模本五卷、今は一册とす。「慶安三庚寅歳 三條通菱屋町林甚右ヱ門」〈三行〉とある。「玉篇の研究」に毎卷の丁數は前の慶安二年本と同じだが本文が十行〈○希云、眞草を一行とすれば五行なるべし〉五段である點が違ふとあるが、本文が異る場合に各卷の枚數が一致するとは思はれず、まして本文が同じであり、段數が異る場合に、兩本で枚數の一致する筈は無い。岡井博士は本文の事に言及して居られないが、實は五段で無くて四段であり、林甚右衞門が、寛永二十年に賣出した本と全く同じ體裁の摸刻版であるのでは無からうか。
  • ○寛文七年正月版「眞草倭玉篇」、五卷五册横本、分卷は慶安二年本と同じで非増補本系、八行〈○希云、實は四行であらう〉五段だから紙數は慶安二年本と變化が無い筈だが果して何うか。刊記は「寛文七丁未年孟春吉日、吉田庄左衞門板行」とある。
  • ○刊年不詳版 横五卷合一册、此の本は珍しく無い本である。非増補系、草體を主とし眞書を左上に小書し、注は平假名である。草體を重視して居るのは二體節用集の影響であらう。一頁九行四段、龜田次郎氏は此の本を慶安頃の本と推定して居られる〈昭和七年一月倭玉篇展覽會に於ける講演〉但し岡井博士は寛延以後刊行と見て居られるやうだ。

などがあり、玉篇の研究や龜田氏の展觀目録には見えるが、此の中一本以外は手許に無く、時代もも早や古いと云はれず、時代が下るにつれ國語學上の價値も減ずるから今は全く無視する事とする。(なほ是らより後の本もあるが其れらはなほさらの事である)

摺筆するに當り、御藏書の恩借を許された中島翁に厚く御禮申上げる。

  • (昭和十四年十二月二十二日)