新譯華嚴經音義私記倭訓攷

一四三 印釧(六六)

○一四三 印釧(六六) 上印文、下手卷{タマギ} 慧苑に無し、經文〈三一五オ上尾二〉に天妙摩尼、以爲㆓印釧㆒莊㆓嚴其臂㆒とある。釧は臂環だが、手卷はタマキと訓むべく、和訓を示すものである。萬葉集七に海神{ワタツミ}ノ手ニ纒キモタル玉故ニとある…

一四二 扇(六五)

○一四二扇(六五) 音仙、訓安布技{アフギ} 慧苑に無し。アフギは二十二卷七〇に説いた。

一四一 臂纎(六五)

○一四一 臂纎(六五) 上音比、云手上也、多太牟岐{タダムキ}、肘、張柳反、云比地{ヒヂ}、纖思廉反、細也、小也 慧苑に無し。此の項、「頻婆果者」の註文中に存するは不可、別項とす可きである。但し經文〈三一〇オ下一三〉に據れば臂纖長として擧げる…

一四〇 脣口(六五)

○一四〇 脣口(六五) 上音眞、訓久知比流{クチビル} 慧苑に此の語は見えるが、他の語と共に見えるのであり、脣の説明は無い。クチビルは四十八卷一一三で既述した。六十八卷の口左岐良參照。

一三九 城邑聚落村隣市肆(六五)

○一三九 城邑聚落村隣市肆(六五) 上、京云㆓城邑㆒也、隣音輪、訓刀奈利{トナリ}、市音之、訓伊知{イチ}、肆音四、訓市位{イチグラ}也 慧苑に無し。トナリは萬葉集十四の東歌に、刀奈里ノキヌヲ借リテ着ナハモとあり、トの假名一致する。イチ、イチ…

一三八 誘誨(六五)

○一三八 誘誨(六五) 上音畏、訓古之良布{コシラフ}、下音化、訓教也 慧苑に無し。畏はヰであるのに、誘(イウ又はユ)の音を畏で示して居るのはいぶかしい。悔音化はクヱである。コシラフの語は地藏十輪經元慶點に誘誑をコシラヘタホロカシ、東大寺諷誦…

一三七 皮膚(六五)

○一三七 皮膚(六五) 〻正爲㆑×、音布、訓波太閇{ハダヘ}、 慧苑に無し、×字は膚の異體字である筈だが、全く同形のものを書いて居る。下の壁字は皮膚〈經文三〇九オ下尾七〉と無關係に五行後に出て來る字であるから、何の爲めに、こゝに書かれて居るか判…

一三六 久如當得(六四)

○一三六 久如當得(六四) 舊經曰、久如當成、伊久比左〻安利天可{イクヒササアリテカ}成佛耶、問状耳 慧苑に無し。問状耳の下に那羅素云々の九字の註があるが、是れは別項である。經文〈三〇五ウ下一〉に故善財童子、言聖者、久如當㆑得㆓阿耨多羅三藐三…

一三五 摧障(六四)

○一三五 摧障(六四) 上久太久{クダク} 慧苑に無し。經文〈三〇五オ下八〉によれば摧障と續くのでなく、摧㆓障礙山㆒とあり、障礙を山に喩へて居るのだから、摧一字を擧げれば可い筈である、クダクは第二卷一一で述べた。

一三四 涌沸(六三)

○一三四 涌沸(六三) 上勇、下發、訓二同和久{ワク} 慧苑に無し。ワクの語は神代紀一書黄泉の條に膿沸{ウミワキ}とあるが、假名書は古いところには無い。平安朝の假名文に至りて見えるのみである。

一三三 承接(六三)

○一三三 承接(六三) 令㆓仕奉{ツカヘマツラ}㆒也 慧苑に無し。經文〈三〇一オ上九〉に難㆑得㆓奉事㆒、難㆑得㆓親近㆒、難㆑得㆓承接㆒、難㆑可㆓逢値㆒難㆑得㆓共居㆒などとあるもの。承接に仕奉の意味は無いと思ふが、此の註がある以上は、ツカヘマツ…

一三二 市肆(六三)

○一三二 市肆(六三) 上又作㆑市、市音之、訓伊知{イチ}、肆陳也、下音四、訓伊知久良{イチクラ}、謂陳㆑貨鬻㆑物也、鬻 慧苑にもある、一部一致する。市字を巿〈肺字の旁〉に書くは宜くない、別の字である。「下音四」の下字、上に誤るが肆字を指すの…

一三一 軸轄(六二)

○一三一 軸轄(六二) 上文地奇{ヂキ}也、轄音割、訓可利毛{カリモ} 慧苑に無し。經文〈二九六オ下一三〉は、諸乘行とか此乘とか云つて居るのに因み、輪大悲轂、信軸堅忍轄と云ふ風に、例により車による譬喩が現はれて居るのである。(可利毛の次ぎに㽵…

一三〇 豺狼(六〇)

○一三〇 豺狼(六〇) 上仕皆反、似狼、〻似犬也、狼云大神{オホカミ}也 慧苑に無し。私記は大神也の次ぎに豹の説明が十九字あるが、經文〈二八七オ下四〉には烏鷲豺狼とあるのみで豹の事は見えないので何の爲めに豹字の説明して居るかは判らぬ。大神の事…

一二九 捕獵放牧(六〇)

○一二九 捕獵放牧(六〇) 〻莫六反、食也、×〈旁は卜/篇は食〉也、捕取㆑魚也、獵力渉反、訓等何利須{トガリス} 慧苑にあるが關係は無いやうだ。×は旁を人にした字と同じ。私記は捕字を大字に書いて居るが其れは非、小字である可きだ。トガリスは萬葉集…

一二八 醫膜(六〇)

○一二八 醫膜(六〇) 上或本爲㆓翳字㆒、音亞{エ}、訓弊也、下音莫、訓麻氣{マケ}也 慧苑にあるが關係無し。マケは十七卷五七參照。

一二七 臺榭(六〇)

○一二七 臺榭(六〇) 〻辭夜反、臺上起室也、于天奈{ウテナ} 慧苑に無し。ウテナの語は第一卷八に述べた。

一二六 階墀軒檻(六〇)

○一二六 階墀軒檻(六〇) 墀除尼反、階謂㆓登㆑堂之道㆒也、墀謂以㆑丹塗㆑地、即天子丹墀也、又云塗地也、倭言爾波彌知{ニハミチ}、檻蘭也 慧苑にもあり、階墀の註は「墀、直尼反、玉篇曰、階謂登堂之道也、説文曰、墀謂以㆑丹塗㆑地、即天子丹墀也」と…

一二五 窓闥交暎(六〇)

○一二五 窓闥交暎(六〇) 上末土{マド}、闥小室 慧苑に無し。マドは和名抄に見える、萬葉の窓超爾月臨照而{ツキオシテリテ}もマドゴシニと訓む他はあるまい。斯道文庫本願經四分律に嚮字をマドと訓んで居る〈其れについて春日博士の御説が見える、國語…

一二四 漿(五九)

○一二四 漿(五九) 音將、訓古美豆 慧苑に無し。漿字を小字で書いて居るのは誤、美字も承に誤り、別筆で美と訂正してある。コミヅは願經四分律の假名點に粉水反〈反は訓の義〉とあり、令集解職員令〈一四六頁〉にも粉水とある。新撰字鏡に古水、和名抄に「…

一二三 轂輞(五九)

○一二三 轂輞(五九) 上己之岐{コシキ}、下矢{ヤ}也 慧苑に無し。經文〈二八〇オ下二〉に菩薩轉㆓法輪㆒、如㆓佛之所轉㆒、戒轂三昧輞とあるもの、法輪だから車に關した語で譬へたのである。輞は輻とも云ひ、車輪を形成する放射線状の棒状の木にして、…

一二二 却敵(五九)

○一二二 却敵(五九) 矢倉{ヤグラ}也 慧苑に無し。經文〈二八〇オ下一五〉に菩薩正法城、般若以爲㆑牆、慙愧爲㆓深厘㆒、智慧爲㆓却敵㆒とあるもので、正法城と云ふ譬喩の城を守る防禦物の一つが、智慧と云ふ却敵である。却敵は敵をシリゾケルための防禦…

一二一 壍(五九)

○一二一 ×(五九) 美序{ミゾ}(×は塹に三水あるもの) 慧苑に無し。ミゾの語は記紀の須佐之男命の暴状の條に溝又は渠を埋める事を書き、又、神武皇后の御祖父として三嶋湟咋{ミゾクヒ}、三嶋溝橛の名があるが、假名書は無い。萬葉集にも儲溝{マケミゾ…

一二〇 爲牆(五九)

○一二〇 爲牆(五九) 〻可岐{カキ} 慧苑に無し。カキは記に夜弊賀岐〈須佐之男命條〉「久米ノ子ラガ加岐モトニ」〈神武段〉「夜弊能斯婆加岐入リタヽズアリ」〈清寧段歌垣條〉とあり、キの假名正しい。

一一九 曲身低影(五九)

○一一九 曲身低影(五九) 上可〻末利{カヾマリ}、低、可多夫久{カタブク} 慧苑に無し、經文〈二七八ウ下一二〉に菩薩摩訶薩坐㆓道場㆒時、一切世界草木叢林、諸物無情物、皆曲身低影、歸㆓向道場㆒、是爲㆓第四未曾有事㆒とあるもの、カヾマリは自動詞…

一一八 呰辱(五八)

○一一八 呰辱(五八) 上音之、訓岐受{キズ}、下音肉、恥也、 慧音に無し。經文〈二七二オ下一一〉によると、呰はソシリの義の方が可い。たゞ呰は疵に通じるからキズの訓を施したのである。和名抄に「痍、音夷、岐須」。キの假名不詳、東大寺諷誦文稿に「…

一一七 痴㲉(五七)

○一一七 痴×(五七) (上略)卵、旅管反、説文曰、凡物無㆑乳者曰㆓卵生㆒也、或卵壃也、壃境也、界也、倭云鳥比古{トリヒコ} 慧苑にもあるが一致せない。×は卵ノカラの義にして殸の下に卵を書いて居るが、經文〈二七一ウ上尾五〉はの下に卵を書いた字に…

一一六 後悔海無及(五一)

○一一六 後悔海無及(五一) 乃知久伊矣與保須奈{ノチクイオヨボスナ} 慧苑に無し。海字は誤字にして衍字である。ノチクイは後悔に當り、オヨボスナは無㆑及に當り、命令形と成つて居り、禁止の係助詞ナが下に來た形だが、經文〈二四一オ下七〉では汝莫㆓…

一一五 足跟(四八)

○一一五 足跟(四八) 〻各痕反、下久比〻須{クヒヒス} 慧苑にあり、反切一致する。和訓はクビヒスと濁る可きか。新撰字鏡に所見あるが、和名抄ではすでに久比須、俗云、岐比須と成つて居り、クビヒス、クビス、キビスの轉訛の急であつた事を示して居る。…

一一四 胸臆(四八)

○一一四 胸臆(四八) 上音孔、下億、訓並牟禰{ムネ} 慧苑に無し。記の沼河日賣の歌に「アワ雪ノ、ワカヤル牟泥ヲ」とある。孔はクの音を示す。